図書館が欲しい! SadEmbarrassedAngry

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私が図書館司書の資格を持っていることから、先日、某大学の社会人学生に単発で講義をする機会を持った。文献検索や調べものをする際の図書館とネットの使い方が講義内容である。タイトルは、『図書館とインターネットのすゝめ 〜卒論・レポート 自分にとって必要な参考文献の探し方〜』。

図書館司書資格取得は明治大学で、2年前のこと。既に錆び付いたような学習記憶を、これまた非活発化した脳に思い起こさせ、当時のノートやレジュメを引っぱりだし、首っ引きで復習に励む。レジュメはパワーポイント(Mac用はKeynoteなのだが)で作成。時間がかかるだろうと心配していたが、思ったよりも早く作成は進んだ。

講義当日。少々緊張した面持ちで向かう。予め大学の教室でパワーポイント用のスクリーンや機材使用は伝えてある。多数派を占めるWindows対応のケーブルが多く、映像をつなぐケーブルが合わなくて、大学の係の人を2度も呼んでしまうことに。すみませんと何度も頭を下げつつ、セッティングする私自身も汗だく。ふぅ。

講義時間になり、人がぞろぞろ入ってきた。予測した人数の2倍ほどの入りだった。大盛況! 用意したレジュメが足りなくなり、途中で係の人がコピーに出たほどだったと後で聞かされた。

終了後の感想としては、思ったほどの緊張はせずに講義を進めることができたということ。でも、伝え忘れたこともいくつかあった。パワーポイントを効果的に見せるためにカーテンを閉めて暗くした室内だったため、用意したメモが見えなかったのだ。かなり笑える。

私にはとても貴重で大切な経験だった。ふと、大学の教授たちを思った。人気のある講義、つまらなくて居眠りになる講義。私自身は昔学生の立場で居眠りする側ではあったが。でも居眠りされるのは悲しい。どの教授も生徒たちにしっかりと学んで欲しいという思いを込めて一生懸命にレジュメを作っていたことだろう。その結果が居眠りになるのは気の毒な気もする。もちろん教え方が面白いということも大切な要素ではあるが。

稚拙さが残る講義で恥じ入るばかりだったが、講義後、多くの人から感謝の意を頂戴した。また、何通か賛辞のメールも頂戴した。大学院まで出ているにもかかわらず、講義のような方法で参考文献を探すことは全く知らないままに卒業してしまったという人のメール。次にまた講義をする予定があれば、最前列で聴講したいという人のメール。心から嬉しい、と思えた瞬間だった。

あのぅ、全く「不満が」の「カテゴリ」ではないですよぉ、という声が聞こえそうだ。が、実はここからが本題(笑)。でも講義のことを記した前段は不要どころか、この本題に大切な役割を果たす。

私が住むいすみ市に図書館はない。町村合併前、夷隅郡であったときももちろん、なかった。市となって5年ぐらいになると思うが、この不景気風が吹く中ではあまり期待はできない。専門的な話になるが、図書館は指定管理者制度といって、自治体行政の運営ではなく、NPOなどの外部に委任が可能である。公営組織の民営化が可能だということだが、そうはいっても、図書館設置は多少行政が絡まないと進まないこともある。従って、行政の長(首長)のさじ加減一つ、とも言えるのだが、振り向いて我が市を見ると、どうもそれはお寒い状況なのではないかという危惧を抱く。というのも、図書館は直接的にお金を生むところではない。スーパーやホームセンターであれば、そこに雇用を生み出し、売買により市内の内需が拡大するのだが。図書館は図書館スタッフという雇用を生み出すが、「書店」ではない。

そもそも、元々図書館がなかったところに図書館を作る際、市民の賛同を得るのは難しい。図書館の必要性を説く際のセリフは、「図書館は色々と調べものをするだけでなく、その空間でゆっくりと書物と触れ合うこと自体に意味・意義がある」、これだけだ。”これだけ”などとネガティブな言い回しにした理由は、それ以上に言いようはないからだ。カギカッコでくくった図書館の必要性にうんうんと頷く人、何それ?となる人、両者間には大きな溝がある。後者に多いのは、調べたければ今の時代はネットがあると言う人。また、書物と触れ合いたい人は学生が多いだろうから、大学の図書館に行けばいいと言う人。

図書館のある暮らしは、文明化された、文化的な市民の暮らしに欠かせない要素をたくさん持っているのだと伝えなければならない。図書館がそれ自体を発信しなければならないが、既存の図書館の大半はその役割を怠っていると大学で学んだ。優秀な図書館は市民に必要と思われることを率先して行っている。高齢化社会に向けての様々な書を一箇所に集め、行く末を案じる高齢者や高齢者を抱える家族に安心を与える企画。旬なテーマを掲げ、関連図書と市民講座を行う。このように、市民に必要と思われることを図書館が先回りして企画し、市民の啓蒙活動に一役買う。こうしたことこそ行わなければならないのである。

エプロンをつけた係が貸し出し作業に応じるだけ。これが図書館のイメージであろう。これを払拭することが図書館の努めなのだが、司書資格を持つ専任職員を配置している公共図書館は全国平均でたったの49%(2004年度調査)である。最大の図書館数を誇る東京だが、有資格者率は34.6%で全国平均よりも低い。最高位は滋賀県で80.5%。6割7割台には、鳥取、島根、岡山、富山などが名を連ねるが、どこも大都市を抱える県とは言えず、図書館先進県が大都市圏ではない事実が露呈する。一人当たりの貸し出し冊数が最多と言われる公共図書館は富山県の舟橋村立図書館である。2900人の小さな村だが、子供の読書活動優秀実践図書館として文部科学大臣表彰を受けた。ちなみに富山県は町村の最小自治体も含め、公共図書館設置率が100%。全国平均は60%程度にとどまる。

学校図書館との連携をしながら、子供の頃から公共図書館を利用する事は大切なことである。世の中は活字に囲まれており、人の発言も活字になり、書物になっていく。それが必要なカテゴリに分けて分類され、一つの建物に入っている、それが図書館である。図書館は知識の宝庫である。ネットだけではわからないことはたくさんある。図書館で知りたい事を体系的に調べてみる、散策してみる、そうした探究心を養うことによって、子供の頃から物事を理論的に考える術を身につけることができる。親たちはそうした教育をふだんから行うべきではないだろうか。

また、図書館は理論だけではなく、情操面、美学面でも子供のためになる場所だ。そこに行けば古い日本にも出会える。その地域の歴史、文化に出会える。地域の百科事典であり、タイムカプセルでもあるのだ。

このように捉えることができれば、「勉強、勉強」とせっつかれる学校と図書館は違うのだということに気づいてもらえるはずだ。押しつけの学校(そうせざるを得ないのだが)とは違い、図書館は自分の興味を探っていく場である。子供の脳は限りない可能性に満ちている。その能力をもっともっと伸ばしてあげることは大人の義務ではないだろうか。もちろんそうした技術が養われれば、学校における「調べ学習」に役立つ事は間違いない。だが、先に勉強ありき、ではなく、興味に向けた探求心を伸ばす事だ。複合的に、理論的に調べることで子供の心には必ず何かが宿って行く。それが将来の、彼や彼女の生き方、職業の方向性を決めることにもつながるはずだ。

一方、大人にとっても図書館は重要である。図書館に通う習慣を身につける事は、文化的市民として教養を身につける事でもある。私が住むこの地域は農村地帯だが、そこにただ農業があり、ただ漁業があるというだけではなく、農業や漁業を引き継いで行くための知恵や知識を図書館から学ぶ事も可能だ。どんな職業であっても「調べもの」は大切な要素なはずだ。図書館は都会の施設、ではない。市民に開かれた地域の人々のサロンともいえる。

そして、引退後に田舎に移住した人たちにとっても生涯教育の場として大いに役立つ。若い頃に興味があったことをひたすら調べてみるのもよい。夫は引退したら天文学の書物を読みあさりたいと言っている。富山にいる私の父は毎日図書館に足を運び、仏教本を読むのが日課となっている。一日たりとも欠かさないのだと母が言っていたが、その話を聞いてから少なくとも5年は経っている。本を読んで心撃たれた言葉があれば、それを何枚も筆記し、私や親戚に送ってくる。少々傍迷惑なのだが、年老いても読み書きをすることは素晴らしいことであり、我慢することに(笑)。それに父はなかなかの達筆である事実を改めて知り、悪い気はしない。

いすみ市に図書館ができることを願いながら、この日の長〜いブログを終えることに。