総量は減るんでしょうけど


10年07月22日:木
環境問題が重視され、レジ袋有料化も進んできている様子。
有料化?、もちろん賛成である。ん、はい、賛成です。何か煮え切らない言い方になってしまうのは、有料化によって「マイバッグ」「トートバッグ」「エコバッグ」などの利用が進み、総量としての”石油消費量”が減るということだから。でも本当に減るんですよね?、と、いまいち疑問が残る。
たとえば、これは私だけでなく、どの家庭でも行っていると思うのだけれど、レジ袋は上記写真のように”家庭内再利用”が一般的ではないだろうか。ゴミ箱の内側にレジ袋を入れる。こうすれば捨てるときに便利である。また、「たくさんキュウリをいただいたの。お裾分けするわね」、てな感じで友達の所に行くときにも使うことがある。また、不測の事態?に備えて旅行用バッグにひとつ入れておいたり、他にも色々と再利用はされていると思う。皆さんも使いますよね?
破れてしまったり、或いは小さすぎるレジ袋でない限りは、レジ袋の再利用率はかなり高いのでは。そう考えると、再利用していたレジ袋がなくなったら、ホームセンターなどで販売されている100枚ワンセット、というようなタイプの”新品レジ袋”を”敢えて”購入しなくてはいけなくなるのだろうか。スーパーのレジ袋は一枚5円が多い。ならば、新品レジ袋の方が安い(^^)/.。
それに、ふーむ、一枚5円で販売するスーパーは、本当に環境問題を考えてこうしているのだろうか。環境よりもコスト削減の狙いがメインの雰囲気。加えて多くのスーパーは、環境問題と銘打って、そのスーパーの名入れトートバッグを販売してもいる。ん、む、ん〜、よく見ると、トートバッグの値段は数百円単位。環境問題に便乗し、商機ありとふんだのか?、で、結構利益を上げているのかなー、なんて勘ぐってしまう。それに、トートバッグはレジ袋よりも分厚いし、こちらの方が石油消費が多いのでは?いえいえ、プラスチックを再生して作っているからエコです。ふむ、なるほど。でもレジ袋だってプラスチックの再利用製品なのでは?
そんなこんなを考えていると、一番エコロジカルなのはどういうやり方なのか、と、考えが袋小路にはまり込む。

かくいう私自身、実は15年ほど前からエコバッグを使っている。紀ノ国屋スーパーのバッグである。丈夫で軽い。合計4枚持っている。ここ数年、無料進呈されるトートバッグに出くわすが、どれも紀ノ国屋スーパーのものにはかなわない気がする。”ブランドもの”意識はかなり希薄な私だけれど、エコバッグはこのように。15年前、レジ袋は要りません、とレジで伝えると、かなり奇異な目で見られたのを思い出す。いすみ地域の当時の現状(汗)。
買い物時の私のエコ活動は、「多くはエコバッグ、時々レジ袋」。先述したように、レジ袋はとても重宝する。ある程度の数が家に無いと困るぐらい。10枚位はいつも置いておくようにしている。それよりも多くなってきたらエコバッグでお買い物。

写真はレジ袋。こういうふうに折ってたたんで小さくすれば便利だと教えてくれたのは母。確かにこうするとかさ張らないので、小さなカゴに収納するのにも都合がよい。折り方を知りたい方はいつかお会いしたときにでも聞いて下さい(そんな大袈裟なことでもないですが)。
いすみ市で有料化を採用しているスーパーやホームセンターはまだない気がする。その時がきたら、その時のためにレジ袋をため置きしようか。イヤ、やはり、「多くはエコバッグ」を守らなきゃ。でもそうなると、「時々レジ袋」の代わりは、ホームセンターで100枚セットを購入することになるのかなぁ。また思考がさっきの疑問へと戻りつつ、袋小路へ(¥へ$).。。
親しい友人とは


10年04月18日:日

人生において人との出会いは大切な事。”袖振り合うも他生の縁”という。ここから始まり、終世の友となる予感の人もいれば、他生(たしょう)の縁が”多少の縁”、”少々の縁”、仕舞には”絶縁”となる人もいる。
20代、30代の頃の名刺用バインダーは膨れ上がる一方だった。名刺の数は数千枚。広告代理店、出版社という仕事柄だったのだろう。この頃は”袖振り合う”人を積極的に求めていた時代だった気がする。それがどんなに薄い縁、細い糸の縁であっても、それをたぐり寄せては、時にはこちらから出かけていって、とにかく貪欲なぐらいに人を求めていたような気がする。だが、30代終盤、40代になってからはあまり人との出会いに積極的ではなくなった。今考えると、あまりにもがむしゃらであった20代、30代の自分が不思議に思え、時には滑稽に感じるほどだ。
今の気持ちは”少数精鋭”、そんなところだろうか。あまり”袖振り合う”人を求める気持ちがない反面、何かのきっかけで新しい人との出会いがあるとワクワクする自分がいるのも事実。本来的には人間好きではあるから。出会い非積極的メンタリティとなった今も新しい出会いはある。この4〜5年でも頻発した。20代、30代の頃だったら、この新規出会いに対し積極的に働きかける私がいただろう。だが今は、冒頭のような「他生ー多少ー少々ー絶縁」的プロセスを辿るだろうという推測が、新規出会い後に数回話をした感触から”見える”ようになった(笑)。見えるというのは大袈裟にしても、友人というより知人止まりで終わるだろうな、というような感触を得ると言うべきか。
親友と呼べないまでも、比較的親しい間柄の人間関係を多く持つ人がいる。同世代にも結構いる。エネルギッシュで社交的とも。今の私はそれがないのだろうと感じる。少数の心の友がいればよい、そう考える私がいるのだろう。年齢的な要素もあるのだろうか。だが60代、70代になったら考えはまた変わるのだろうか。
それでも出会いは大切だ。知人止まりであろうが絶縁になろうが、人と接する機会が与えられれば、もちろん間違いなく真摯な態度で接する心づもりはある。
サード・オピニオンもあり


10年04月03日:土
ペットの病気、ペットの死。いつかは向き合わざるを得ないし、避けては通れない。ペットが病気になったらどういう治療をし、どの治療は避けるのか、これらの選択も迫られる。金銭面との兼ね合いもあるだろうが、何よりも動物に対する生き方哲学、動物に対する死生観が問われる時である。哲学であり死生観がカギであるということは、これらに対する価値観が獣医と飼い主の間でイコールであることが望ましいということでもある。
友達Kの飼い犬に良性だが腫瘍があるという。乳癌の疑いがあるらしい。Kの獣医は腫瘍を取り除くのはもちろんだが、8〜10もある乳房を2回に分けて全て取り除き、その後は抗癌剤で治療をするべきだという。
Kと話をした私はその獣医に違和感を持った。Kも同様で、私も含め何人かの友達に相談をしてみたらしい。友人間のアドバイスで共通したのは「セカンド・オピニオン」。当然だろうと思う。
犬や猫にインフォームド・コンセントを行うことは不可能だ。人間ならば、入院から切除手術まで、そして抗ガン剤治療による副作用の嘔吐や下痢、脱け毛などについて説明をし、その上で「了解」を取る事ができるが、動物たちにはあり得ない作業だ。動物にも副作用はある?だろう。すると犬猫たちは、動けない、食欲が無い、吐き気が激しい、毛が抜ける、など、自分の身に起こっている事を理解するのではなくただ「苦しみを受け容れる」だけだ。
同じ「苦しみ」であっても、避妊手術や去勢手術は一時の「我慢」で済む。獣医の診察台に昇る恐怖、術後に麻酔が切れてくるときの不快感、患部の違和感、ウザイと感じながらも付けさせられるエリザベスカラー、抜糸のために再度昇る手術台の恐怖。一時とは言ったが、何をされるのか皆目見当がつかないままの犬猫にしてみれば、これでもかなり恐怖のオンパレードだ。それでも、これらの手術に関して言えば、その後の「楽しい生活」が約束されているから、飼い主がペットに成り代わってインフォームド・コンセントを受けた気持ちになれ、その治療を確信を持って「了解」できるから実行に移せるのだと思う。
避妊や去勢のように手術自体が一般化して長い歴史を持つものと違い、動物のガンはどうなのだろう。その知識は私にはない。だが、人間の治療に置き換えて考えると、乳癌治療は3年5年10年単位で対処する。人間の7倍近くの速さで歳をとって行く犬猫たちの場合、それはどのぐらいに置き換えればいいのだろうか。苦しい期間は?どんな副作用が?それに関する臨床データはかなりの数になっているのか?動物の心理との兼ね合いでの研究は?などなど。病気になってから亡くなるまでの間は、ただずっと治療と副作用の連続で終わり、元気よく駆け回る姿はないままに亡くなった、というようなことにはならないのだろうか。治療後の「楽しい生活」を信じて飼い主が決断したはずが、ペットはただ苦しみ、動物らしさが欠落し、飼い主の満足は、せいぜいペットが腕の中で亡くなったことだけ、などということはないのだろうか。もしもこれが現状なら私個人の意見としては、苦汁を強いる生活を愛するペットたちに送らせたくはない。
人間への医療ですらまだ未知の部分が多くあるというのに、動物に関してはもっともっと遅れていると考えた方がよいように思う。人間ですらセカンド・オピニオンがあるのだから、動物に関してはサード・オピニオンぐらい考えてもよい気がする。
獣医の意見を聞きながら、最終的に自分たちの気持ちを固めて行く作業は決して気楽ではない。時には重々しい決断を迫られることもある。というのも、私自身がそれを経験しているからだ。3年前の夏、獣医と相談の上、飼っている猫に安楽死をお願いしたことがある。名前はチビ。糖尿病にかかり、極端に微量のインスリン注射と砂糖水が行ったり来たりという状態になった。骨と皮のような姿になり、おぼつかない足元。快活に歩くという姿からはほど遠く、「猫らしさ」は消えていた。
それでも外に出ようとはするが、よろよろっと倒れたり起き上がったり。野良猫は姿を隠して人知れず死んで行くという。だが我が家で生まれて育った飼い猫のチビは、出かけるといっても敷地内であり、人間から見えるところで倒れて動けなくなる。そのまま放っておけばたぶん24時間以内には呼吸も止まるのだろう。だが我々から見える位置にいるチビが息絶えるのを24時間見守るなんてことはできない。この人間側の気持ちがインスリンと砂糖水の行き来を継続させていた。だが、もう長くはない。それが明白なのであれば、チビに苦しい日々を与え続けるよりも、獣医さんに安楽死をお願いしよう。それが夫と私の結論だった。決めたこととはいえ、心が張り裂けそうになった。頭は空っぽなのかいっぱいなのか、とにかく何も考えられなかった。涙が出て止まらず、獣医さんたちの手前であることなど関係なく、わぁーわぁー泣いた。
私たちにできたせめてもの償いは、最期は獣医ではなく家で死なせてあげることだった。獣医さんに出向いてもらい、いつもチビが過ごしている寝室のベッドで、夫と私に囲まれて、いつもとまるで変わらない環境の中で静かに眠らせてあげようと思った。そのぐらいしか思い浮かばない私たちだった。
それでも、獣医さんが打つ注射にチビがちょっと抵抗した時のことを思い出すと、今も時々自分たちの選択は間違っていなかっただろうか、チビはヨタヨタであってももっと生きていたかったのだろうか、我々から見えるところで行き倒れになって死ぬ事の方を望んでいたのだろうか、などという、自分の決断を否定するネガティブな気持ちが頭をもたげた。それは今も時々起こる。安楽死に後悔はない反面、チビの遺影に向かうとそのことを問いかけてしまう。それでも今ではようやくチビの遺影に向かって「これでよかったと思ってるよ」と言えるようになった。
ペットの病気に対する対処。確信を持って結論を導いたつもりであっても、その後迷ったり悩んだりするのは人間の心情として当然のこと。「正解」はないのだから。だがその迷いや悩みを少しでも軽減させる意味で、セカンド・オピニオンやサード・オピニオンを求め、また友達に相談すればいいのだと思う。ピース・オブ・マインド、つまり飼い主自身の心の平穏のためにも有数の「意見」を聞き、自分たちなりに資料を集め、最終的判断を下す。これが後悔を減らす役割になる。
ピンピン・コロリという死に方は、人間の願望だけでなく、ペットにも当てはまる。だが、動物も長生きする時代になり、その保証は無い。人間と同じ病気にもなる。また長生きにより介護が必要な動物も増えてきた。死生観が同一の獣医であること。今後、もっともっと真に迫ってくることだろう。
「Kさん、大変だろうけど愛する家族のためですから、頑張ってね」
友達Kの飼い犬に良性だが腫瘍があるという。乳癌の疑いがあるらしい。Kの獣医は腫瘍を取り除くのはもちろんだが、8〜10もある乳房を2回に分けて全て取り除き、その後は抗癌剤で治療をするべきだという。
Kと話をした私はその獣医に違和感を持った。Kも同様で、私も含め何人かの友達に相談をしてみたらしい。友人間のアドバイスで共通したのは「セカンド・オピニオン」。当然だろうと思う。
犬や猫にインフォームド・コンセントを行うことは不可能だ。人間ならば、入院から切除手術まで、そして抗ガン剤治療による副作用の嘔吐や下痢、脱け毛などについて説明をし、その上で「了解」を取る事ができるが、動物たちにはあり得ない作業だ。動物にも副作用はある?だろう。すると犬猫たちは、動けない、食欲が無い、吐き気が激しい、毛が抜ける、など、自分の身に起こっている事を理解するのではなくただ「苦しみを受け容れる」だけだ。
同じ「苦しみ」であっても、避妊手術や去勢手術は一時の「我慢」で済む。獣医の診察台に昇る恐怖、術後に麻酔が切れてくるときの不快感、患部の違和感、ウザイと感じながらも付けさせられるエリザベスカラー、抜糸のために再度昇る手術台の恐怖。一時とは言ったが、何をされるのか皆目見当がつかないままの犬猫にしてみれば、これでもかなり恐怖のオンパレードだ。それでも、これらの手術に関して言えば、その後の「楽しい生活」が約束されているから、飼い主がペットに成り代わってインフォームド・コンセントを受けた気持ちになれ、その治療を確信を持って「了解」できるから実行に移せるのだと思う。
避妊や去勢のように手術自体が一般化して長い歴史を持つものと違い、動物のガンはどうなのだろう。その知識は私にはない。だが、人間の治療に置き換えて考えると、乳癌治療は3年5年10年単位で対処する。人間の7倍近くの速さで歳をとって行く犬猫たちの場合、それはどのぐらいに置き換えればいいのだろうか。苦しい期間は?どんな副作用が?それに関する臨床データはかなりの数になっているのか?動物の心理との兼ね合いでの研究は?などなど。病気になってから亡くなるまでの間は、ただずっと治療と副作用の連続で終わり、元気よく駆け回る姿はないままに亡くなった、というようなことにはならないのだろうか。治療後の「楽しい生活」を信じて飼い主が決断したはずが、ペットはただ苦しみ、動物らしさが欠落し、飼い主の満足は、せいぜいペットが腕の中で亡くなったことだけ、などということはないのだろうか。もしもこれが現状なら私個人の意見としては、苦汁を強いる生活を愛するペットたちに送らせたくはない。
人間への医療ですらまだ未知の部分が多くあるというのに、動物に関してはもっともっと遅れていると考えた方がよいように思う。人間ですらセカンド・オピニオンがあるのだから、動物に関してはサード・オピニオンぐらい考えてもよい気がする。
獣医の意見を聞きながら、最終的に自分たちの気持ちを固めて行く作業は決して気楽ではない。時には重々しい決断を迫られることもある。というのも、私自身がそれを経験しているからだ。3年前の夏、獣医と相談の上、飼っている猫に安楽死をお願いしたことがある。名前はチビ。糖尿病にかかり、極端に微量のインスリン注射と砂糖水が行ったり来たりという状態になった。骨と皮のような姿になり、おぼつかない足元。快活に歩くという姿からはほど遠く、「猫らしさ」は消えていた。
それでも外に出ようとはするが、よろよろっと倒れたり起き上がったり。野良猫は姿を隠して人知れず死んで行くという。だが我が家で生まれて育った飼い猫のチビは、出かけるといっても敷地内であり、人間から見えるところで倒れて動けなくなる。そのまま放っておけばたぶん24時間以内には呼吸も止まるのだろう。だが我々から見える位置にいるチビが息絶えるのを24時間見守るなんてことはできない。この人間側の気持ちがインスリンと砂糖水の行き来を継続させていた。だが、もう長くはない。それが明白なのであれば、チビに苦しい日々を与え続けるよりも、獣医さんに安楽死をお願いしよう。それが夫と私の結論だった。決めたこととはいえ、心が張り裂けそうになった。頭は空っぽなのかいっぱいなのか、とにかく何も考えられなかった。涙が出て止まらず、獣医さんたちの手前であることなど関係なく、わぁーわぁー泣いた。
私たちにできたせめてもの償いは、最期は獣医ではなく家で死なせてあげることだった。獣医さんに出向いてもらい、いつもチビが過ごしている寝室のベッドで、夫と私に囲まれて、いつもとまるで変わらない環境の中で静かに眠らせてあげようと思った。そのぐらいしか思い浮かばない私たちだった。
それでも、獣医さんが打つ注射にチビがちょっと抵抗した時のことを思い出すと、今も時々自分たちの選択は間違っていなかっただろうか、チビはヨタヨタであってももっと生きていたかったのだろうか、我々から見えるところで行き倒れになって死ぬ事の方を望んでいたのだろうか、などという、自分の決断を否定するネガティブな気持ちが頭をもたげた。それは今も時々起こる。安楽死に後悔はない反面、チビの遺影に向かうとそのことを問いかけてしまう。それでも今ではようやくチビの遺影に向かって「これでよかったと思ってるよ」と言えるようになった。
ペットの病気に対する対処。確信を持って結論を導いたつもりであっても、その後迷ったり悩んだりするのは人間の心情として当然のこと。「正解」はないのだから。だがその迷いや悩みを少しでも軽減させる意味で、セカンド・オピニオンやサード・オピニオンを求め、また友達に相談すればいいのだと思う。ピース・オブ・マインド、つまり飼い主自身の心の平穏のためにも有数の「意見」を聞き、自分たちなりに資料を集め、最終的判断を下す。これが後悔を減らす役割になる。
ピンピン・コロリという死に方は、人間の願望だけでなく、ペットにも当てはまる。だが、動物も長生きする時代になり、その保証は無い。人間と同じ病気にもなる。また長生きにより介護が必要な動物も増えてきた。死生観が同一の獣医であること。今後、もっともっと真に迫ってくることだろう。
「Kさん、大変だろうけど愛する家族のためですから、頑張ってね」
辛辣だけど真実


10年03月27日:土
好きな社会学者? ふむ、マックス・ウェーバー、そして上野千鶴子、かな。前者が「難解」なら、後者は「痛快」(笑)。痛快な理由は、とにかくイヤな輩をメッタ切りにする、そのやり口(笑)(笑)。
上野氏は東大の教授。フェミニストの筆頭格。ジェンダーを語らせたら右に出る人はいないのではないだろうか。オトコたちを束ねては投げ捨て、また束ね、今度は千切って投げつける。かと思ったらそれを拾い、救うのかと思わせた途端、ニコッと笑って火をつける。かなり過激だが、上野氏を表現するならこれが相応しい。だがこれはあくまでも彼女が社会学者として論争する際の話であり、実生活での男性対応ということではない(笑)。
論争で燃えカスになるのは、家父長制や儒教精神などがベースとなり、”オトコが一番”、という社会に支えられてきた「思い上がりの強いオトコたち」。燃えカスになったオトコたちはいわばダメ男。
だが、彼女が批判するのはこのダメ男だけではない。ダメ男を批判的に見ているようでいて実はその世界にどっぷり浸かり、結果としてダメ男の擁護にまわっているかのようなダメ女たちも標的だ。
そんな上野氏が朝日新聞の「悩み相談」の回答者として登場している。いいのだろうか、彼女で(笑)。先日の相談にもかなりぶっちぎりでの回答があり、あまりにも痛快すぎる反面、社会学者としての彼女は一流だが、心理カウンセラーには不向きかもしれないと感じた(失礼)。
相談者は30代の女性。出産を機に退職。夫がゴミの仕分けを手伝ってくれない、シャンプーやトイレットペーパーなど、家庭雑貨を購入して補充するということを全くしてくれない、と。気づいた方がやればいいし、気づいた方が損なだけ、気づかないフリでもしたらどうかと、夫の弁。職場にいたころは、コピー用紙などは率先して補充し、職場の後輩たちもそれを見て成長したというのに、何故私の夫は、という悩み。
それに対する上野氏の回答はかなり辛辣。そんな男だと結婚前に気づかなかった相談者はうかつだ。だが、夫を再教育することは可能ながらも、それをやる間に夫婦間のトラブルは絶えないだろうし、そうなったら夫を「返品」(もちろん離婚の意味)するのかとなるが、正社員の仕事を手放したことで「返品」も難しいはず。それにゴミやら職場の後輩の話など、やっている姿を見せて覚えてもらったという引用から、相談者があまりにも伝統的な日本の妻の悩みであることをも批判している。
相談内容からすると、結果としては上野氏の言う通りだと思う。私にも相談者はかなり古典的な日本女性に写る。子育てはままごとではない。親の生き方や哲学が長期間にわたって試され、生き様が常に社会の眼に晒され続けるということだ。文面から勝手に推測するなら、相談者はダメ男を掴んでしまったと言うしか無い。しかしまだ30代の女性。たぶん20代位で結婚したのだろう。結婚するとき、女性の目にはハートマークとお星様マークしか写っていないもの(男性も同じか)。それが若ければ若いほど(人を見てきたという経験が少ないという意味で)ハートは大きく、星はキラキラ輝き、それが仇となって相手の真の姿を見えなくする。そして、生活をして行く中で「貧乏くじ」に気づく。気づいても別れられず、子育てや家事に追われる毎日。こんな夫婦はたーくさんいる。枚挙にいとまが無いほどだ。
だが、そんなダメ男を選んだあなたが悪いと、ただ一言で片付けることはできない。カウンセラーとしては、相談者の援助をしつつ、「気付き」を促すお手伝いをしなてくはならない。気付きの結果として選んだ方向が、たとえば離婚等のように社会的には否定的に捉えられていることであっても構わない。或いは、多少仮面夫婦になったとしても、家事に対する手伝いを期待することは諦め、夫を給料運搬人として割り切る。これもありだ。重要なのは、相談者自身が決断した事を胸を張って明るく行動に移すこと。これが「気付き」なのだ。
私も個人的な立場だったら言いたい事は上野氏と同じ(笑)。だが、これは気付きを促すというよりも一刀両断(笑)。ま、そこが上野氏のカッコイイところなのだけれど。それに、相談者がどの程度悩んでいるかも疑問だ。新聞投稿での相談は必ずしも採用されるとは限らない。本当に「悩んで」いるのなら新聞は選ばないのでは。上野氏もそのあたりを承知しつつ、いっちょう喝を入れてやるか、と考えたのだろう。
だが、一抹の不安は相談者の今後。現時点ではボヤキ程度の悩みで済んでいるかもしれないが、彼女が「気付き」に到達しないままに過ごすと、子供の非行、家庭内暴力など、家族崩壊に至る確率は少しずつ高まって行く。何せ、機能不全の家庭悲劇のスタートは、そもそもボヤキ程度の小さな悲劇から始まることが多いのだから。
上野氏は東大の教授。フェミニストの筆頭格。ジェンダーを語らせたら右に出る人はいないのではないだろうか。オトコたちを束ねては投げ捨て、また束ね、今度は千切って投げつける。かと思ったらそれを拾い、救うのかと思わせた途端、ニコッと笑って火をつける。かなり過激だが、上野氏を表現するならこれが相応しい。だがこれはあくまでも彼女が社会学者として論争する際の話であり、実生活での男性対応ということではない(笑)。
論争で燃えカスになるのは、家父長制や儒教精神などがベースとなり、”オトコが一番”、という社会に支えられてきた「思い上がりの強いオトコたち」。燃えカスになったオトコたちはいわばダメ男。
だが、彼女が批判するのはこのダメ男だけではない。ダメ男を批判的に見ているようでいて実はその世界にどっぷり浸かり、結果としてダメ男の擁護にまわっているかのようなダメ女たちも標的だ。
そんな上野氏が朝日新聞の「悩み相談」の回答者として登場している。いいのだろうか、彼女で(笑)。先日の相談にもかなりぶっちぎりでの回答があり、あまりにも痛快すぎる反面、社会学者としての彼女は一流だが、心理カウンセラーには不向きかもしれないと感じた(失礼)。
相談者は30代の女性。出産を機に退職。夫がゴミの仕分けを手伝ってくれない、シャンプーやトイレットペーパーなど、家庭雑貨を購入して補充するということを全くしてくれない、と。気づいた方がやればいいし、気づいた方が損なだけ、気づかないフリでもしたらどうかと、夫の弁。職場にいたころは、コピー用紙などは率先して補充し、職場の後輩たちもそれを見て成長したというのに、何故私の夫は、という悩み。
それに対する上野氏の回答はかなり辛辣。そんな男だと結婚前に気づかなかった相談者はうかつだ。だが、夫を再教育することは可能ながらも、それをやる間に夫婦間のトラブルは絶えないだろうし、そうなったら夫を「返品」(もちろん離婚の意味)するのかとなるが、正社員の仕事を手放したことで「返品」も難しいはず。それにゴミやら職場の後輩の話など、やっている姿を見せて覚えてもらったという引用から、相談者があまりにも伝統的な日本の妻の悩みであることをも批判している。
相談内容からすると、結果としては上野氏の言う通りだと思う。私にも相談者はかなり古典的な日本女性に写る。子育てはままごとではない。親の生き方や哲学が長期間にわたって試され、生き様が常に社会の眼に晒され続けるということだ。文面から勝手に推測するなら、相談者はダメ男を掴んでしまったと言うしか無い。しかしまだ30代の女性。たぶん20代位で結婚したのだろう。結婚するとき、女性の目にはハートマークとお星様マークしか写っていないもの(男性も同じか)。それが若ければ若いほど(人を見てきたという経験が少ないという意味で)ハートは大きく、星はキラキラ輝き、それが仇となって相手の真の姿を見えなくする。そして、生活をして行く中で「貧乏くじ」に気づく。気づいても別れられず、子育てや家事に追われる毎日。こんな夫婦はたーくさんいる。枚挙にいとまが無いほどだ。
だが、そんなダメ男を選んだあなたが悪いと、ただ一言で片付けることはできない。カウンセラーとしては、相談者の援助をしつつ、「気付き」を促すお手伝いをしなてくはならない。気付きの結果として選んだ方向が、たとえば離婚等のように社会的には否定的に捉えられていることであっても構わない。或いは、多少仮面夫婦になったとしても、家事に対する手伝いを期待することは諦め、夫を給料運搬人として割り切る。これもありだ。重要なのは、相談者自身が決断した事を胸を張って明るく行動に移すこと。これが「気付き」なのだ。
私も個人的な立場だったら言いたい事は上野氏と同じ(笑)。だが、これは気付きを促すというよりも一刀両断(笑)。ま、そこが上野氏のカッコイイところなのだけれど。それに、相談者がどの程度悩んでいるかも疑問だ。新聞投稿での相談は必ずしも採用されるとは限らない。本当に「悩んで」いるのなら新聞は選ばないのでは。上野氏もそのあたりを承知しつつ、いっちょう喝を入れてやるか、と考えたのだろう。
だが、一抹の不安は相談者の今後。現時点ではボヤキ程度の悩みで済んでいるかもしれないが、彼女が「気付き」に到達しないままに過ごすと、子供の非行、家庭内暴力など、家族崩壊に至る確率は少しずつ高まって行く。何せ、機能不全の家庭悲劇のスタートは、そもそもボヤキ程度の小さな悲劇から始まることが多いのだから。
民放と東京


10年01月11日:月
民放を見なくなってからもう7年。敷地の山(丘)のてっぺんにアンテナを立てない限り民放が入らないという所に居を構えた。民放不要の決断と東京脱出の決断はどこか似ている。民放番組と東京、両者に共通するのは気忙しさ。私はそこから脱出したのだなと感じる。
また、両者への「思い」にも共通する事がある。それは、たまには楽しいということ。深い森の中に住みながら時々東京に出かけるのは楽しい。また、人の家やお店などで時々民放を見ること、これもまた面白い。でも、それで充分であり、それ以上に欲することはない。
民放で一つだけ惜しいと感じる事は、稀にある良質なドラマが見られなくなったこと。今は亡き二人だが、例えば向田邦子原作で久世光彦演出のドラマ。良質なドラマとまでは言えないが、その瞬間を楽しませてくれるトレドラの中にも好きなものがいくつかあった。「東京ラブストーリー」、「ロンバケ」など。「ビューティフルライフ」は脚本が良いと感じられたトレドラの一つだ。
その民放のドラマに異変が起きているらしい。最近は、マンガになっているもの、有名小説が原作というものが多くなり、オリジナル脚本作品が少なくなったという。テレビ局の経営悪化により制作費も減少している。また制作期間が昔よりも短くなり、出演者もギリギリまで決まらないため、短期間で企画を立てる場合に原作ものは楽なのだとか。また、オリジナル脚本作品で視聴率が取れなかった場合、関係者が背負うリスクも大きいらしい。一度目にしたり耳にしたりという既存原作の方が視聴率が取れ、関係者の不安も軽減、ということなのだろう。また、「言葉狩り」もある様子だ。セリフの中の「中卒」は「高校に行っていない」になり、「床屋さん」「お百姓」はNGなのだとか。どう差別的なのだろう? だがこれも関係者の不安軽減なのだろうか。
また、ドラマの主人公となる世代の変化もある様子だ。最近の若者の傾向として、老後が心配、冒険はせず、野心もなく、傷つくのが怖い男女間心理など。腫れ物に触るのもドラマの面白さのはずが、ターゲットとなる若者が後ろ向きでは作り手が困惑するのは当たり前。
こうした時代だからこそ、この逆境を好機と捉えてドラマ作りに挑むという、井上由美子氏、中園ミホ氏、大石静氏、この3人の脚本家のコメントが新聞に掲載されていた。このドラマ、あのドラマを見たいがために地デジアンテナを取り付けたい、そんなふうに思わせるような番組作りをお願いしたいと思う。
また、両者への「思い」にも共通する事がある。それは、たまには楽しいということ。深い森の中に住みながら時々東京に出かけるのは楽しい。また、人の家やお店などで時々民放を見ること、これもまた面白い。でも、それで充分であり、それ以上に欲することはない。
民放で一つだけ惜しいと感じる事は、稀にある良質なドラマが見られなくなったこと。今は亡き二人だが、例えば向田邦子原作で久世光彦演出のドラマ。良質なドラマとまでは言えないが、その瞬間を楽しませてくれるトレドラの中にも好きなものがいくつかあった。「東京ラブストーリー」、「ロンバケ」など。「ビューティフルライフ」は脚本が良いと感じられたトレドラの一つだ。
その民放のドラマに異変が起きているらしい。最近は、マンガになっているもの、有名小説が原作というものが多くなり、オリジナル脚本作品が少なくなったという。テレビ局の経営悪化により制作費も減少している。また制作期間が昔よりも短くなり、出演者もギリギリまで決まらないため、短期間で企画を立てる場合に原作ものは楽なのだとか。また、オリジナル脚本作品で視聴率が取れなかった場合、関係者が背負うリスクも大きいらしい。一度目にしたり耳にしたりという既存原作の方が視聴率が取れ、関係者の不安も軽減、ということなのだろう。また、「言葉狩り」もある様子だ。セリフの中の「中卒」は「高校に行っていない」になり、「床屋さん」「お百姓」はNGなのだとか。どう差別的なのだろう? だがこれも関係者の不安軽減なのだろうか。
また、ドラマの主人公となる世代の変化もある様子だ。最近の若者の傾向として、老後が心配、冒険はせず、野心もなく、傷つくのが怖い男女間心理など。腫れ物に触るのもドラマの面白さのはずが、ターゲットとなる若者が後ろ向きでは作り手が困惑するのは当たり前。
こうした時代だからこそ、この逆境を好機と捉えてドラマ作りに挑むという、井上由美子氏、中園ミホ氏、大石静氏、この3人の脚本家のコメントが新聞に掲載されていた。このドラマ、あのドラマを見たいがために地デジアンテナを取り付けたい、そんなふうに思わせるような番組作りをお願いしたいと思う。
8,760時間


09年12月31日:木
今年のブログを振り返ってみて感じることがいくつかあった。
一つ:ブログは誰に向けて書いているのか。公開日記であるから読者を意識しないわけにはいかない。でも、誰?
二つ:どういうメッセージを放っていくのか、いきたいのか。一つめのことにも通じるが、誰に向けて書いているかによって違ってくる。
三つ:完全にパーソナルなものとしたいのか、多くの人に読んでもらいたいと考えているのか。バナー広告、相互リンク、メタ言語駆使などによるヒット数増、など、金銭目的も含め、戦略的にブログを知らしめて行きたいのか、という課題にも直面する。
一度スタートさせると、ブログはある意味「プレッシャー」になる。もちろん重々しいプレッシャーではないが。3日に開けずブログを書いていた人がしばらくブログを留守にすると、再開した時に必ず「謝罪」に近い言葉を書いてしまう。私もその気持ちはわかる。だが果たして誰に謝っているのか。もちろん読者なのだが、書きたいときに書き、書きたくない時には書かない、あるいは書けないときは書かない、ブログはそれでいいはず、なのに。しかし、やはりブログは継続ものなのだろう。継続するからには、やはり読んで欲しいと願う。そうした気持ちはブログの中断をさせづらくし、再開後の謝罪気分にもつながる。
また、一躍有名にでもならない限り、基本的にブログの読者は「身内」。決して多い読者数とはいえない。だが、「身内」が読むからこそ、どこまで「本音」を書けるのかという課題も生ずる。内容によっては「身内」の誰かを傷つけることもあり得るため、言葉は選ばねばならない。「身内」の個人的な情報を公開するには許可が必要だったり、あるいは掲載不可能ということもある。「身内」が読んで、それが「身内同士」の内容であることもあり得るから、これまた配慮が必要になる。
ここでいう課題やら配慮は、決して「身内」に対する罵詈雑言ということではない。そこまで深刻な内容ではない。だが、書く側が書き綴りたいと思うことが、書かれる側の意識とのずれにより、書けなくなることもあるような気がする。活字には身振り手振りの表情がないからこそ、言葉も選ばねばならない。
また、自分自身のことを書くにしても「限界」がある。知られたくないことを書く人はいない。都合の悪いことはパスしたいものだ。だが、「非公開」の日記なら全てを綴るだろう。心の全てが書き留めてあることが日記なのだから。公開されるブログとの大きな違いがここにある。だが、読みたいと思わせるブログには「心」がある。それが「非公開」の側にかなり多いこと、この皮肉な事実も重い。
私のブログは8月下旬からスタートしたばかり。全く深刻な場面に遭遇したわけではない。だが、多少のジレンマを感じ始めてはいる。2010年はそのジレンマに向き合ってみようかと思う。
今日は大晦日。12月31日と1月1日、たった1日違い、大晦日の夜11時59分と元旦の零時ではたった1分の違い、隣り合った時間にもかかわらず、何故か気持ちも新たな思いにさせてくれる。来年こそはと願う、そういう気持ちに応えるかのように「新年」があるように思う。とてもありがたい。
1日24時間。365日目の今日で8,760時間という時間を過ごしてきたことになる。ブログには時間表示をしない設定にしているが、これを書いていた時刻は朝の6時30分。今朝はなんと4時20分に目が覚めた。満月の月明かりがとても美しかった。
10日前から「チクタク」とともに行ってきたカウントダウン。
あと17時間半で2009年が終わる。チ・ク・タ・ク。
一つ:ブログは誰に向けて書いているのか。公開日記であるから読者を意識しないわけにはいかない。でも、誰?
二つ:どういうメッセージを放っていくのか、いきたいのか。一つめのことにも通じるが、誰に向けて書いているかによって違ってくる。
三つ:完全にパーソナルなものとしたいのか、多くの人に読んでもらいたいと考えているのか。バナー広告、相互リンク、メタ言語駆使などによるヒット数増、など、金銭目的も含め、戦略的にブログを知らしめて行きたいのか、という課題にも直面する。
一度スタートさせると、ブログはある意味「プレッシャー」になる。もちろん重々しいプレッシャーではないが。3日に開けずブログを書いていた人がしばらくブログを留守にすると、再開した時に必ず「謝罪」に近い言葉を書いてしまう。私もその気持ちはわかる。だが果たして誰に謝っているのか。もちろん読者なのだが、書きたいときに書き、書きたくない時には書かない、あるいは書けないときは書かない、ブログはそれでいいはず、なのに。しかし、やはりブログは継続ものなのだろう。継続するからには、やはり読んで欲しいと願う。そうした気持ちはブログの中断をさせづらくし、再開後の謝罪気分にもつながる。
また、一躍有名にでもならない限り、基本的にブログの読者は「身内」。決して多い読者数とはいえない。だが、「身内」が読むからこそ、どこまで「本音」を書けるのかという課題も生ずる。内容によっては「身内」の誰かを傷つけることもあり得るため、言葉は選ばねばならない。「身内」の個人的な情報を公開するには許可が必要だったり、あるいは掲載不可能ということもある。「身内」が読んで、それが「身内同士」の内容であることもあり得るから、これまた配慮が必要になる。
ここでいう課題やら配慮は、決して「身内」に対する罵詈雑言ということではない。そこまで深刻な内容ではない。だが、書く側が書き綴りたいと思うことが、書かれる側の意識とのずれにより、書けなくなることもあるような気がする。活字には身振り手振りの表情がないからこそ、言葉も選ばねばならない。
また、自分自身のことを書くにしても「限界」がある。知られたくないことを書く人はいない。都合の悪いことはパスしたいものだ。だが、「非公開」の日記なら全てを綴るだろう。心の全てが書き留めてあることが日記なのだから。公開されるブログとの大きな違いがここにある。だが、読みたいと思わせるブログには「心」がある。それが「非公開」の側にかなり多いこと、この皮肉な事実も重い。
私のブログは8月下旬からスタートしたばかり。全く深刻な場面に遭遇したわけではない。だが、多少のジレンマを感じ始めてはいる。2010年はそのジレンマに向き合ってみようかと思う。
今日は大晦日。12月31日と1月1日、たった1日違い、大晦日の夜11時59分と元旦の零時ではたった1分の違い、隣り合った時間にもかかわらず、何故か気持ちも新たな思いにさせてくれる。来年こそはと願う、そういう気持ちに応えるかのように「新年」があるように思う。とてもありがたい。
1日24時間。365日目の今日で8,760時間という時間を過ごしてきたことになる。ブログには時間表示をしない設定にしているが、これを書いていた時刻は朝の6時30分。今朝はなんと4時20分に目が覚めた。満月の月明かりがとても美しかった。
10日前から「チクタク」とともに行ってきたカウントダウン。
あと17時間半で2009年が終わる。チ・ク・タ・ク。
タクシーの中の人生模様


09年12月24日:木
東京で時々利用するタクシー。終始無言のタクシードライバーもいれば、終始喋りっぱなしのドライバーもいる。会話をするしないに関わらず、料金を払って降りてしまえば通常は忘れていく対象。
ところが今年は印象的なタクシードライバー2人に出くわした。

一人目のドライバーは、とても爽やかな印象。話題は政権の話。私の過去の経験では、何故かこの手の話の時、決まってドライバーたちはネガティブ。時には斜に構え、どうにでもなれと、捨てっぱちである場合。また、応援する党がありながらも話し振りはネガティブ。狭い車内を暗い雰囲気でいっぱいにする。
だが、今年遭遇したこのドライバーの場合、決して政治に高望みをする言い方はしないのだが、かといって罵倒するでもなく諦めた言い草をするでもない。淡々と話すのだが冷たい感じはなく、しかもそつのない話し振りである。ドライバーが話した実際の文言は確かではないが、政権がどう変わったとしても生きて行くのは自分自身の足なのだということを、お仕着せでなく、諭すでもなく、あくまでも冷静に語るのである。
そして色々と話しているうちにわかったことは、彼は元々輸入服飾関係の店舗を構えていたこと。景気後退で店を維持できなくなったために閉店し、顧客に直接販売する無店舗に切り替えた。年に数回はイタリアに買い付けに出かける。平日は顧客対応、そして土日だけタクシードライバーとして働いているのだとか。栃木に家があり、妻子はそこに住む。彼は東京に単身赴任とも。イタリアが大好きで、引退後の移住を考えているのだとか。

二人目のドライバーは、とても柔らかな第一印象から始まった。話題は宝くじ。”日本一”の西銀座の宝くじ売り場が目に入り、自然に。1千万円当たったらの質問にそのドライバーは、まだ1歳の子供がいるため、教育費その他に、と。むむ、背後から見てもゴマ塩頭。ちらっと前座席の写真を見るも、やはり60歳ぐらい?と。1歳のお子さんねぇ、と思いつつも、次なる額は5千万円に。すると、しばし考え込んだドライバーは、「ちゃんと家(分譲アパート)を買いますね」と。何か事情がありそうな雰囲気を察する。もしも話したければ話すだろうと思い、少し間を置く。すると、そのドライバーは身の上話を切り出した。
小さな工場を持っていたドライバー。妻も子もあり。2年ほど前に友人たちと一緒に外国へ出かけゴルフを。同じゴルフ場で彼らの前方でプレーをしていた女性たちがおり、ひょんなきっかけから皆で食事をすることに。そしてその中の一人の女性に恋をする。彼女は20歳ほど年下。中学生の子供が一人。夫とは死別の未亡人。
当然、自然、必然、ねんごろな仲になる。妻に打ち明けると、全財産放棄するなら離婚を承諾すると言われる。そしてその通りに。ただ彼の誤算は、財産を放棄しても、工場には残って仕事ができると考えていた事。だが、全財産放棄が意味するのは、彼が持っていた会社の株も全て放棄となる。工場は既に息子が采配を振る。世代交代はできているのだ。そうなるともはや財産のない「60男」は「用無し」だと、彼の妻が三行半を突きつけたのかどうか、細かい心理詳細はわからないが、会社もクビになる。とにかく体よく追い出されてしまった。
60男の再就職が難しいのは世の習い。そして彼はタクシードライバーの道に入る。望んでこの道に入ったというよりも、これしかなかったという雰囲気があった。それにしては柔らかで明るい印象だった。もちろんその理由は、愛する女性と再婚し、現在1歳になる子供もできたこと、だろうと思う。今は東京で賃貸アパート暮らし。連れ子がとても親思いでいい子なのだと嬉しそうに語るドライバー。妻は掃除の仕事をしている。

タクシードライバーでふと思い出した事がある。好景気に支えられていた四半世紀ほど前、タクシーに乗った。そのタクシードライバーは自費出版で本を書いたようだ。たまたまそのタクシーに乗った私に、彼は軽快にセールスを始めた。助手席に平積みされた著書。客との面白い出来事を綴ったのだそうだ。セールストークにつられて思わずその著書を購入した。もう私の書棚にはないが、後部座席の珍なる忘れ物、女性客と「いい関係」になった事など、色々なエピソードが書いてあったように記憶している。
本も出版するタクシードライバーはさすがに異質かもしれないが、バブル期に限らず好景気に支えられた時代は東京のタクシーも活気があった。電車など使うことがなかったようなバブル期の夜に至っては、タクシーがなかなかつかまらなかったものだ。
それに比して考えると、先の2人のドライバーはまさに現在の不景気風の影響をまともに受けているといえる。そうした中でも、幸せに向かって前向きに生きている2人のドライバーには頭が下がる思いである。しかし、服飾の方のドライバーは目標に向かって邁進しており、それほど心配はない気がした。
だが、お節介ながら、1歳の子の親となった60代の男性は少々心配である。今はまだ新しい生活がスタートして1年程度。自分の決断を誇らしく感じているに違いない。ゼロスタート、貧しくとも愛があれば、その気持ちが十分に支えになる。だが、蜜月は必ずしも永遠ではない。敢えてシビアに考えるならば、蜜月にかげりが見えた時、お金の問題は冷酷に家族を分断する可能性がある。会社の経営者であった自分、持ち家もあった自分、仲間とゴルフができた身分、そうした自分を羨望的に回顧し、全財産を失った代償は高かったと後悔の念に苛まれることが、ないとは言えない。この家族の幸せが続くよう心から願う気持ちになった。
悲喜こもごも、だからこそ人生は楽しいのかもしれない。楽しく幸せだけの人生では人の悲しみや苦しみがわからない。この成功は自分の努力によるものであり誰の助けも借りていないと豪語する人がいるが、こうした人は人の苦を知らないままなのかもしれないと感じる。人は人によって支えられているのであり、”独力”は言葉として存在していても、生身の人間関係、生きる営みの中では、決して存在しない意味合いだと思う。
2009年、辛い1年だったと感じている人、及第点を上げてもよしと思える人、満点に近いと感じている人、それら全ての人たちに幸せなことがたくさん起こる2010年でありますように。
2010年まであと7日、チクタク、チクタク。
ところが今年は印象的なタクシードライバー2人に出くわした。

一人目のドライバーは、とても爽やかな印象。話題は政権の話。私の過去の経験では、何故かこの手の話の時、決まってドライバーたちはネガティブ。時には斜に構え、どうにでもなれと、捨てっぱちである場合。また、応援する党がありながらも話し振りはネガティブ。狭い車内を暗い雰囲気でいっぱいにする。
だが、今年遭遇したこのドライバーの場合、決して政治に高望みをする言い方はしないのだが、かといって罵倒するでもなく諦めた言い草をするでもない。淡々と話すのだが冷たい感じはなく、しかもそつのない話し振りである。ドライバーが話した実際の文言は確かではないが、政権がどう変わったとしても生きて行くのは自分自身の足なのだということを、お仕着せでなく、諭すでもなく、あくまでも冷静に語るのである。
そして色々と話しているうちにわかったことは、彼は元々輸入服飾関係の店舗を構えていたこと。景気後退で店を維持できなくなったために閉店し、顧客に直接販売する無店舗に切り替えた。年に数回はイタリアに買い付けに出かける。平日は顧客対応、そして土日だけタクシードライバーとして働いているのだとか。栃木に家があり、妻子はそこに住む。彼は東京に単身赴任とも。イタリアが大好きで、引退後の移住を考えているのだとか。

二人目のドライバーは、とても柔らかな第一印象から始まった。話題は宝くじ。”日本一”の西銀座の宝くじ売り場が目に入り、自然に。1千万円当たったらの質問にそのドライバーは、まだ1歳の子供がいるため、教育費その他に、と。むむ、背後から見てもゴマ塩頭。ちらっと前座席の写真を見るも、やはり60歳ぐらい?と。1歳のお子さんねぇ、と思いつつも、次なる額は5千万円に。すると、しばし考え込んだドライバーは、「ちゃんと家(分譲アパート)を買いますね」と。何か事情がありそうな雰囲気を察する。もしも話したければ話すだろうと思い、少し間を置く。すると、そのドライバーは身の上話を切り出した。
小さな工場を持っていたドライバー。妻も子もあり。2年ほど前に友人たちと一緒に外国へ出かけゴルフを。同じゴルフ場で彼らの前方でプレーをしていた女性たちがおり、ひょんなきっかけから皆で食事をすることに。そしてその中の一人の女性に恋をする。彼女は20歳ほど年下。中学生の子供が一人。夫とは死別の未亡人。
当然、自然、必然、ねんごろな仲になる。妻に打ち明けると、全財産放棄するなら離婚を承諾すると言われる。そしてその通りに。ただ彼の誤算は、財産を放棄しても、工場には残って仕事ができると考えていた事。だが、全財産放棄が意味するのは、彼が持っていた会社の株も全て放棄となる。工場は既に息子が采配を振る。世代交代はできているのだ。そうなるともはや財産のない「60男」は「用無し」だと、彼の妻が三行半を突きつけたのかどうか、細かい心理詳細はわからないが、会社もクビになる。とにかく体よく追い出されてしまった。
60男の再就職が難しいのは世の習い。そして彼はタクシードライバーの道に入る。望んでこの道に入ったというよりも、これしかなかったという雰囲気があった。それにしては柔らかで明るい印象だった。もちろんその理由は、愛する女性と再婚し、現在1歳になる子供もできたこと、だろうと思う。今は東京で賃貸アパート暮らし。連れ子がとても親思いでいい子なのだと嬉しそうに語るドライバー。妻は掃除の仕事をしている。

タクシードライバーでふと思い出した事がある。好景気に支えられていた四半世紀ほど前、タクシーに乗った。そのタクシードライバーは自費出版で本を書いたようだ。たまたまそのタクシーに乗った私に、彼は軽快にセールスを始めた。助手席に平積みされた著書。客との面白い出来事を綴ったのだそうだ。セールストークにつられて思わずその著書を購入した。もう私の書棚にはないが、後部座席の珍なる忘れ物、女性客と「いい関係」になった事など、色々なエピソードが書いてあったように記憶している。
本も出版するタクシードライバーはさすがに異質かもしれないが、バブル期に限らず好景気に支えられた時代は東京のタクシーも活気があった。電車など使うことがなかったようなバブル期の夜に至っては、タクシーがなかなかつかまらなかったものだ。
それに比して考えると、先の2人のドライバーはまさに現在の不景気風の影響をまともに受けているといえる。そうした中でも、幸せに向かって前向きに生きている2人のドライバーには頭が下がる思いである。しかし、服飾の方のドライバーは目標に向かって邁進しており、それほど心配はない気がした。
だが、お節介ながら、1歳の子の親となった60代の男性は少々心配である。今はまだ新しい生活がスタートして1年程度。自分の決断を誇らしく感じているに違いない。ゼロスタート、貧しくとも愛があれば、その気持ちが十分に支えになる。だが、蜜月は必ずしも永遠ではない。敢えてシビアに考えるならば、蜜月にかげりが見えた時、お金の問題は冷酷に家族を分断する可能性がある。会社の経営者であった自分、持ち家もあった自分、仲間とゴルフができた身分、そうした自分を羨望的に回顧し、全財産を失った代償は高かったと後悔の念に苛まれることが、ないとは言えない。この家族の幸せが続くよう心から願う気持ちになった。
悲喜こもごも、だからこそ人生は楽しいのかもしれない。楽しく幸せだけの人生では人の悲しみや苦しみがわからない。この成功は自分の努力によるものであり誰の助けも借りていないと豪語する人がいるが、こうした人は人の苦を知らないままなのかもしれないと感じる。人は人によって支えられているのであり、”独力”は言葉として存在していても、生身の人間関係、生きる営みの中では、決して存在しない意味合いだと思う。
2009年、辛い1年だったと感じている人、及第点を上げてもよしと思える人、満点に近いと感じている人、それら全ての人たちに幸せなことがたくさん起こる2010年でありますように。
2010年まであと7日、チクタク、チクタク。
大山鳴動してネズミ一匹

09年12月20日:日

車道と同等の地位を確保された自転車道の整備がなされ、白線を挟み自動車と並んで走る自転車の映像がニュースで流れたデンマークのコペンハーゲン。また、デンマークは全電力中に占める風力発電の割合は20%もあり、世界一である。
国連気候変動枠組み条約締約国会議ことCOP15が開催されたのは、環境問題への取り組みに対し真摯に向き合っている国である。また、今や温室効果ガス排出量世界一となった中国、世界二位のアメリカも参加し、成果にかなりの期待がもたれた。否応無しに期待は高まる。COP15はこのように鳴り物入りで始まった。
そしてその結果としての「コペンハーゲン合意」に関する評価は様々。「絶望的な失敗」と酷評を伝えた環境保護団体、「よかった」とのコメントの鳩山首相、「不十分ながら前例のない合意」とのコメントのオバマ大統領、などなど。
経済的にも進展著しい中国が途上国に根回しをしているのではないかという憶測も流れた。世界に大きな影響力を持ち始めた中国に懸念を示す場面もあったという。
結局、排出削減の義務づけがないままに終わったCOP15。大山鳴動してネズミ一匹、とまでは言わないが、温暖化ストップという方向に向くのは難しい。脱温暖化は夢物語に終わるのだろうか。

このタイミングであったからなのかどうか、衛星放送で『ウォーターワールド』(1995年)という映画をやっていた。温暖化により陸地が完全に水没した未来を描いた映画である。途中から見始めたのだが、なんとなく最後まで見てしまった。決して「キネマの歴史」に残るほどの映画ではないと個人的には思うが、それなりに楽しめた。主演はケビン・コスナー。
陸地が水没した未来は、当然辺り一面が海、海、海。水没後として何世代ぐらい後を描いているのかはわからなかったが、何故かケビン・コスナーは「半魚人」(笑)。見た目はもちろん人間なのだが、耳の後ろにエラ、足の指の間には水かきが!エラ呼吸も可能な彼が海に深く潜り、底に沈んだ都市を見せる場面もあった。誰しもがみんな船に乗って暮らしているが、どこかにあると言われる「ドライランド」、つまり陸地を目指している。
多少はロマンスもあり。船上で恋仲になった女性がいて、その後悪い海賊たちと戦いながらようやく辿り着いた「ドライランド」。陸慣れしていないみんなはまず「陸酔い」(笑)。”普通の人間”ですら陸酔い。エラも水かきもあり、半魚人?と化した彼にとって陸はもはや住む世界ではない。そして二人は惜しみながらも互いに別れを告げる。
来年はCOP16が開催される。新たな枠組み合意が展開されるのかどうか。『ウォーターワールド』のようなSFフィクションは「今」だから「まだ」笑えるのかもしれない。
幸福な結婚、不幸な結婚

09年11月20日:金
友人同士が結婚することになった。二人とも「アラフォー」。とてもお似合いのカップルだと思っている。以前から”怪しい”と睨んでいた二人でもあったし、両者を知っている私としては、性格的にも合うのではと感じていた。何度か「どうなの?」的な質問をしたこともあった。その都度何気なく否定していたのを覚えている。でもしっかりと愛を育んでいたのね、と思うと、心が温かくなってくる。幸せになって欲しいと心から思う。
上述の二人も含め、私の周囲には結婚願望の強い人たちが少なからずいる。以前、そうした内の一人、Kが、私に会うまでは結婚を否定的に捉えていたと告白した。Kの周囲には楽しい結婚生活を送っている例がないのだそうだ。結婚なんて絶対にしない方がいいとか、結婚は苦労ばかりだから独身に限るなど、否定的な発言に包まれたKにとって、結婚を肯定する発言に終始する私はかなり鮮烈な印象を与えたようだ。
しかし、周囲が否定派ばかりだから自分も否定というのは理由として説得力はないし、またいい大人なのだから誰かと交際する事があれば自分の中に自分自身の結婚観が芽生えるはず、そんな他力本願な調子で結婚を考えるのはヘン、というふうに切り返した私。ところがKは、誰一人として結婚の良さを言わないような環境にいることを想像して欲しいと言う。そんな中にいれば結婚に希望を抱けなくなると。それでもKの発言を100%理解することはできない私だったが、確かに良い例が全くないというのも辛い状況かもしれない。特に20代前半の若い時であれば、結婚ということに限らず、生き方の手本も欲しいところ。手本がないままに30代、40代と続くのもしんどい。
私の周囲に居る既婚者たち、離婚者たちを見渡してみても、確かに「良い例」はそれほど多くない。離婚経験のある人が、結婚なんてするものじゃあないと断言する場面に出くわしたこともある。辛い結婚生活だったのだろうけれど、フツーに結婚生活を送っている人に対して「そのうち絶対に苦労するわよ」的な発言はやめてもらいたい。また、嫁姑問題や夫婦問題で悩んでいる既婚者が、これまたフツーに結婚生活を送っている人に対し「あなたにはわからないのよ」的な発言をするのもやめていただきたいと思ったことがある。確かに経験しない限り”わからない”かもしれないけど、想像力を働かせ、感情移入し、その辛苦に対する同情心ぐらいは持ち合わせているつもりだ。だが、斜に構えた否定派は、フツーに楽しく結婚生活を送る人を目の敵にでもしているが如しの剣幕なのである。Kは、こうした類に囲まれていた、ということなのだろうか?
「結婚」は人生においてビッグイベントである。結婚、離婚、再婚、再々婚、再離婚?? 誰もが結婚するときは離婚なんて考えない。その人と一生添い遂げる、という決意の元に行っているのが結婚なのだから。従って一般的には離婚は不幸な出来事に分類される。でも、離婚した方がお互い幸せになれるという判断なのだろうし、最終的には不幸な訳ではない。それに、結婚を貫いているからエラいというわけではない。不幸な結婚を延々と続けている人もいる。別れられない理由は、子供であったり、オンナ独りで生きて行くための金銭的事情であったり。
考えてみると、結婚観は十人十色である。だがそれよりも重要な事実は、結婚観はあくまでも相対的であり、数値にしてもかなり主観的産物であるということだ。つまり、幸不幸度を点数にしたとして、30点をつけたAさんと30点をつけたBさんが「同じ」だとは言えないということだ。30点同士の二人の「現況」を箇条書きにした際、時には暴力を振るわれているAさんと、かなり言いたい放題の発言をしている自称嫁姑問題に苦しむBさん、ということが露呈するかもしれない。
私は新婚ホヤホヤでもないし若くもないから、結婚の酸いも甘いもそれなりに知っているつもりであり、ハートの目をして「結婚はステキよ」などと言っているのではない。でも、男性をある程度吟味できる成熟?した年齢で結婚したこと、またその上で素晴らしい伴侶に恵まれたということから、諸手を挙げて「結婚は良い事」という意見に至っている、だけだ。私が個人的に晩婚を勧める理由がそこにあるが、若くして結婚し、その後も幸せな結婚を続けている人も知っている。また、離婚経験者で、結婚はこりごりとは言うものの、それを他人に押し付けることのない「良識ある」友達もいる。
結婚したいと思う人は、是非結婚してみてください。離婚を考えている人、どうぞ決行してください。ただその際は安易に離婚を考えず、友人知人を始めとして色々な人に相談することを忘れないようにしましょう。はからずも、定期購読している『婦人公論』の特集が「見極めたい、夫との別れ時」となっています。参考になさったらいいかもしれません。
上述の二人も含め、私の周囲には結婚願望の強い人たちが少なからずいる。以前、そうした内の一人、Kが、私に会うまでは結婚を否定的に捉えていたと告白した。Kの周囲には楽しい結婚生活を送っている例がないのだそうだ。結婚なんて絶対にしない方がいいとか、結婚は苦労ばかりだから独身に限るなど、否定的な発言に包まれたKにとって、結婚を肯定する発言に終始する私はかなり鮮烈な印象を与えたようだ。
しかし、周囲が否定派ばかりだから自分も否定というのは理由として説得力はないし、またいい大人なのだから誰かと交際する事があれば自分の中に自分自身の結婚観が芽生えるはず、そんな他力本願な調子で結婚を考えるのはヘン、というふうに切り返した私。ところがKは、誰一人として結婚の良さを言わないような環境にいることを想像して欲しいと言う。そんな中にいれば結婚に希望を抱けなくなると。それでもKの発言を100%理解することはできない私だったが、確かに良い例が全くないというのも辛い状況かもしれない。特に20代前半の若い時であれば、結婚ということに限らず、生き方の手本も欲しいところ。手本がないままに30代、40代と続くのもしんどい。
私の周囲に居る既婚者たち、離婚者たちを見渡してみても、確かに「良い例」はそれほど多くない。離婚経験のある人が、結婚なんてするものじゃあないと断言する場面に出くわしたこともある。辛い結婚生活だったのだろうけれど、フツーに結婚生活を送っている人に対して「そのうち絶対に苦労するわよ」的な発言はやめてもらいたい。また、嫁姑問題や夫婦問題で悩んでいる既婚者が、これまたフツーに結婚生活を送っている人に対し「あなたにはわからないのよ」的な発言をするのもやめていただきたいと思ったことがある。確かに経験しない限り”わからない”かもしれないけど、想像力を働かせ、感情移入し、その辛苦に対する同情心ぐらいは持ち合わせているつもりだ。だが、斜に構えた否定派は、フツーに楽しく結婚生活を送る人を目の敵にでもしているが如しの剣幕なのである。Kは、こうした類に囲まれていた、ということなのだろうか?
「結婚」は人生においてビッグイベントである。結婚、離婚、再婚、再々婚、再離婚?? 誰もが結婚するときは離婚なんて考えない。その人と一生添い遂げる、という決意の元に行っているのが結婚なのだから。従って一般的には離婚は不幸な出来事に分類される。でも、離婚した方がお互い幸せになれるという判断なのだろうし、最終的には不幸な訳ではない。それに、結婚を貫いているからエラいというわけではない。不幸な結婚を延々と続けている人もいる。別れられない理由は、子供であったり、オンナ独りで生きて行くための金銭的事情であったり。
考えてみると、結婚観は十人十色である。だがそれよりも重要な事実は、結婚観はあくまでも相対的であり、数値にしてもかなり主観的産物であるということだ。つまり、幸不幸度を点数にしたとして、30点をつけたAさんと30点をつけたBさんが「同じ」だとは言えないということだ。30点同士の二人の「現況」を箇条書きにした際、時には暴力を振るわれているAさんと、かなり言いたい放題の発言をしている自称嫁姑問題に苦しむBさん、ということが露呈するかもしれない。
私は新婚ホヤホヤでもないし若くもないから、結婚の酸いも甘いもそれなりに知っているつもりであり、ハートの目をして「結婚はステキよ」などと言っているのではない。でも、男性をある程度吟味できる成熟?した年齢で結婚したこと、またその上で素晴らしい伴侶に恵まれたということから、諸手を挙げて「結婚は良い事」という意見に至っている、だけだ。私が個人的に晩婚を勧める理由がそこにあるが、若くして結婚し、その後も幸せな結婚を続けている人も知っている。また、離婚経験者で、結婚はこりごりとは言うものの、それを他人に押し付けることのない「良識ある」友達もいる。
結婚したいと思う人は、是非結婚してみてください。離婚を考えている人、どうぞ決行してください。ただその際は安易に離婚を考えず、友人知人を始めとして色々な人に相談することを忘れないようにしましょう。はからずも、定期購読している『婦人公論』の特集が「見極めたい、夫との別れ時」となっています。参考になさったらいいかもしれません。
人間界に警鐘、学者から、そして地球から


09年11月09日:月
文化人類学者・思想家である、クロード・レヴィ=ストロース氏が10月30日に亡くなった。1908年11月生まれ。目前に迫った101歳の誕生日を迎えることはなかった。ユダヤ人系フランス人家庭に生まれた。御多分に漏れず、太平洋戦争時代はナチスによるユダヤ人迫害を避けてアメリカに亡命。
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
これは氏の著書『悲しき熱帯』1955年の冒頭記述の中にある。私は同著を読んでおらず、人類学者としてのレヴィ=ストロース氏をあまり知らない。だが、この有名な言葉だけは私の心を捕らえていつまでも離さない。この言葉かを知った時、思わず同感!、という具合にうんうん頷いていた。この言葉の裏にある同氏の思いは定かではないが、確実に共通する思いはあると確信したからだ。
「共通する思い」とは、私が生物学で少々学んだ事である。人間がいかに傲慢であり、地球に対し厚顔無恥であるかを知らせてくれた恩師ともいえる。テキストはユニークで、46億年と言われる地球年齢を、1年12ヶ月のカレンダーに合わせ、地球の「生い立ち」なるものを綴った年表があった。常に心に留め、戒めとしているつもりであるそれを以下に示す。
単位(目安として):
1ヶ月=3.78億年 1日=1,260万年 1時間=52.5万年 1分=8,752年 1秒=146年
*元旦;46億年前:地球誕生。誕生時は灼熱の世界であり、温度が徐々に低下して海洋と陸地が生じた。
*3月初旬;38億年前:お雛様の頃。子孫を作る能力をもつ生物の誕生。最初の生物は細菌(原核生物)で、海の有機物をエサとして増殖。だが4月には海中の有機物の減少で生物に危機が訪れる。資源枯渇となれば、地球はまた生物のない星に戻る。
*5月;30億年前:ゴールデンウイークの頃。光合成をする生物が現れ危機を脱出。これにより地球に初めて酸素が登場。だが、まだ大気中に蓄積されたとはいえない。十分な蓄積となったのは7月も終わる頃。これで生物が自力で生きて行く道が開かれた。
*8月終〜10月;16億年前〜10億年前:夏休みから初秋。様々な生物が登場するが、現在の感覚で考える馴染みのある生物にはほど遠い。
*11月半ば;5.7億年前:現在のタコ、ウニ、貝類、ヒトデなどが出現。だが、陸には草も虫も存在しない。理由は強いエネルギーを持ちDNAを傷つけ、細胞を死に追いやる紫外線。水とは異なり、陸には紫外線を吸収する仕組みがなかった。解決を見たのは11月の終わり(4億2000万年前)。陸上の植物が登場すれば、それをエサとする草食動物、また肉食動物も可能にする。
*12月2日;3.7億年前:師走に入った頃。カエルなどの両生類、昆虫などが登場し、陸はとても賑やかになる。
*12月8日;3億年前:ジョン・レノンが彼のファンに射殺された日。高さ30m級の大木が森林を作り、それにより大気中の酸素濃度は今のレベルに達した。石炭の大半はこの大森林故にできたらしく、1週間ほど(8,820年)かかった。
*12月15日;2.1億年前:恐竜の登場。しかし、クリスマスが終わった翌日の12月26日(6500年前)に消滅。
*12月27日;(6000年前)〜30日:お正月の買い物やおせち料理作りに忙しい時。ここまで年の瀬になっても人間の祖先は姿を現さない。
*12月31日の午後12時30分;600万年前:チンパンジーと分かれたヒト登場。
*12月31日の午後4時30分;400万年前:祖先の猿人登場。
*12月31日の午後9時過ぎ;150万年前:原人登場。
*12月31日の午後11時54分;5万年前:除夜の鐘を聞く頃。現世人類登場。
*12月31日の午後11時59分頃;1万年前:農業スタート。狩猟採集から農耕民への切り替え。ここから人類の繁栄は著しい。
*12月31日の午後11時59分59秒5;約80年前:既に秒読み状態にあるこの時、人類は科学文明に突入。
100年にも満たない間に、我々人類は鉱物資源を枯渇寸前にまで至らしめた。だがこの言い回しは人間を中心にした感情表現である。枯渇で困るのは人間。鉱物資源が必要な人間が現状を危機的に捉えている表現だ。地球にしてみれば、地球上の物質の1つが減ったに過ぎない。また、「人間にとって悪しき状況」である、地球温暖化、熱帯雨林減少、オゾン層破壊、などが急激に進み、結果として人類滅亡に至ったとしても、これまた地球にしてみれば、細菌や貝類の一つが死滅したことと同様に、人間という一種が滅びたに過ぎない。滅亡原因が核戦争であっても同様だ。
しかし、人を介して聞こえてくるのは、”地球は人間なのだ”、的な同列の扱い。そして地球に主体性を持たせ、地球を一人称、主語にした言い回し。地球が悲鳴を上げている、地球環境のために二酸化炭素排出量削減、とか、地球環境のために太陽エネルギーを使いましょう、などなど。それらは全て「人間界のために」と言い換えるべきではないだろうか。
地球は常に受け身である。46億年も生きている地球の歩みは悠久の昔から変わらない。緩慢にも見えるその動きの中、数千年、数億年というとてつもなく大きな計り知れない単位で地球表面は変化をし続けているのである。酸素を例にとるならば、酸素は登場した時点での量は生物にとって十分ではなかった。その後地球表面で様々な動きが生じ、十分な酸素量になるまでには登場後10億年以上もの時間がかかっている。
遅々として見える地球の歩みは着実なのだ。地球が謙虚である証ではないだろうか。地球を一人称扱いするならば、こうした謙虚さで示して欲しい。地球と比較してみると、0.5秒前に産まれた新参者「現代人」の我々はなんと気ぜわしいことだろう。鉱物資源の利用価値が高いと知るや否や、掘り尽くし、使い尽くし、そして反省する。医学・科学技術面においても同様だ。ダイナマイトを開発し、殺戮に使い、その反省が「ノーベル賞」。戦後のシラミ退治に効果を発揮し魔法の粉と言われたDDTだが、その後発癌性が疑われ使用を中止。軽くて便利なプラスチック類が瞬く間に普及するが、ダイオキシン問題が発生し反省。
人間が科学的に合成して作った問題物質は、誕生から反省までがわずか数十年。しかもその問題物質は人間の死を大量に招き、人間の健康を代々に渡って阻害し、動植物や森林を滅亡に導いている。生物界で一番インテリジェントであるはずの人間は、常に付け焼き刃の研究開発しかしていない。目先の利益だけを追求する近視眼的発想だ。人間が億年単位、せめて千年単位で科学技術開発を考えることはあるのだろうか。いや、そんなことは可能なのだろうか、という疑問が先に立つ。
地球に主体性があり意思があり、憲法があったなら、先のような悪行三昧の我々人類は「極刑」だろう。だが、地球はあくまでも事態を静観するだけ。いや、刑の執行は既に始まっているとも。何せ、たっぷり時間をかけるのが地球流なのだから。
夥しい数の生物種が地球上に存在するが、異端なのは人間だけ、正統でないのは人間だけ、のように感じられる。今後も科学は発展し続けるだろう。我々の生活を「便利」にし、「より良く」してくれている事を否定はしない。だが、この非正統派の人間が地球上の生物分布を加速的に変えるパワーを持っていることは事実だ。人間はそれをしっかりと認識すべきである。流行の言葉で言うならば、サステナビリティ(sustainability)、持続可能性。目先の利益追いを止めたなら、この持続可能の「時間範囲」をできるだけ長いスパンで考えられるようになるはずだ。地球寿命に関する天文学上の学説は別として、今後何十億年と続くかもしれない地球上の人間の営みを人間自身が想像力をもって考える努力をすれば、もっともっと地球に対し謙虚な気持ちになれるのではないだろうか。
オマージュなど身の程知らずであることは重々承知の上で、レヴィ=ストロース氏へ贈る。
「人間が死滅しても地球が涙することはない、地球は残りの生物とともに淡々と歩み続けるだけだ」
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
これは氏の著書『悲しき熱帯』1955年の冒頭記述の中にある。私は同著を読んでおらず、人類学者としてのレヴィ=ストロース氏をあまり知らない。だが、この有名な言葉だけは私の心を捕らえていつまでも離さない。この言葉かを知った時、思わず同感!、という具合にうんうん頷いていた。この言葉の裏にある同氏の思いは定かではないが、確実に共通する思いはあると確信したからだ。
「共通する思い」とは、私が生物学で少々学んだ事である。人間がいかに傲慢であり、地球に対し厚顔無恥であるかを知らせてくれた恩師ともいえる。テキストはユニークで、46億年と言われる地球年齢を、1年12ヶ月のカレンダーに合わせ、地球の「生い立ち」なるものを綴った年表があった。常に心に留め、戒めとしているつもりであるそれを以下に示す。
単位(目安として):
1ヶ月=3.78億年 1日=1,260万年 1時間=52.5万年 1分=8,752年 1秒=146年
*元旦;46億年前:地球誕生。誕生時は灼熱の世界であり、温度が徐々に低下して海洋と陸地が生じた。
*3月初旬;38億年前:お雛様の頃。子孫を作る能力をもつ生物の誕生。最初の生物は細菌(原核生物)で、海の有機物をエサとして増殖。だが4月には海中の有機物の減少で生物に危機が訪れる。資源枯渇となれば、地球はまた生物のない星に戻る。
*5月;30億年前:ゴールデンウイークの頃。光合成をする生物が現れ危機を脱出。これにより地球に初めて酸素が登場。だが、まだ大気中に蓄積されたとはいえない。十分な蓄積となったのは7月も終わる頃。これで生物が自力で生きて行く道が開かれた。
*8月終〜10月;16億年前〜10億年前:夏休みから初秋。様々な生物が登場するが、現在の感覚で考える馴染みのある生物にはほど遠い。
*11月半ば;5.7億年前:現在のタコ、ウニ、貝類、ヒトデなどが出現。だが、陸には草も虫も存在しない。理由は強いエネルギーを持ちDNAを傷つけ、細胞を死に追いやる紫外線。水とは異なり、陸には紫外線を吸収する仕組みがなかった。解決を見たのは11月の終わり(4億2000万年前)。陸上の植物が登場すれば、それをエサとする草食動物、また肉食動物も可能にする。
*12月2日;3.7億年前:師走に入った頃。カエルなどの両生類、昆虫などが登場し、陸はとても賑やかになる。
*12月8日;3億年前:ジョン・レノンが彼のファンに射殺された日。高さ30m級の大木が森林を作り、それにより大気中の酸素濃度は今のレベルに達した。石炭の大半はこの大森林故にできたらしく、1週間ほど(8,820年)かかった。
*12月15日;2.1億年前:恐竜の登場。しかし、クリスマスが終わった翌日の12月26日(6500年前)に消滅。
*12月27日;(6000年前)〜30日:お正月の買い物やおせち料理作りに忙しい時。ここまで年の瀬になっても人間の祖先は姿を現さない。
*12月31日の午後12時30分;600万年前:チンパンジーと分かれたヒト登場。
*12月31日の午後4時30分;400万年前:祖先の猿人登場。
*12月31日の午後9時過ぎ;150万年前:原人登場。
*12月31日の午後11時54分;5万年前:除夜の鐘を聞く頃。現世人類登場。
*12月31日の午後11時59分頃;1万年前:農業スタート。狩猟採集から農耕民への切り替え。ここから人類の繁栄は著しい。
*12月31日の午後11時59分59秒5;約80年前:既に秒読み状態にあるこの時、人類は科学文明に突入。
100年にも満たない間に、我々人類は鉱物資源を枯渇寸前にまで至らしめた。だがこの言い回しは人間を中心にした感情表現である。枯渇で困るのは人間。鉱物資源が必要な人間が現状を危機的に捉えている表現だ。地球にしてみれば、地球上の物質の1つが減ったに過ぎない。また、「人間にとって悪しき状況」である、地球温暖化、熱帯雨林減少、オゾン層破壊、などが急激に進み、結果として人類滅亡に至ったとしても、これまた地球にしてみれば、細菌や貝類の一つが死滅したことと同様に、人間という一種が滅びたに過ぎない。滅亡原因が核戦争であっても同様だ。
しかし、人を介して聞こえてくるのは、”地球は人間なのだ”、的な同列の扱い。そして地球に主体性を持たせ、地球を一人称、主語にした言い回し。地球が悲鳴を上げている、地球環境のために二酸化炭素排出量削減、とか、地球環境のために太陽エネルギーを使いましょう、などなど。それらは全て「人間界のために」と言い換えるべきではないだろうか。
地球は常に受け身である。46億年も生きている地球の歩みは悠久の昔から変わらない。緩慢にも見えるその動きの中、数千年、数億年というとてつもなく大きな計り知れない単位で地球表面は変化をし続けているのである。酸素を例にとるならば、酸素は登場した時点での量は生物にとって十分ではなかった。その後地球表面で様々な動きが生じ、十分な酸素量になるまでには登場後10億年以上もの時間がかかっている。
遅々として見える地球の歩みは着実なのだ。地球が謙虚である証ではないだろうか。地球を一人称扱いするならば、こうした謙虚さで示して欲しい。地球と比較してみると、0.5秒前に産まれた新参者「現代人」の我々はなんと気ぜわしいことだろう。鉱物資源の利用価値が高いと知るや否や、掘り尽くし、使い尽くし、そして反省する。医学・科学技術面においても同様だ。ダイナマイトを開発し、殺戮に使い、その反省が「ノーベル賞」。戦後のシラミ退治に効果を発揮し魔法の粉と言われたDDTだが、その後発癌性が疑われ使用を中止。軽くて便利なプラスチック類が瞬く間に普及するが、ダイオキシン問題が発生し反省。
人間が科学的に合成して作った問題物質は、誕生から反省までがわずか数十年。しかもその問題物質は人間の死を大量に招き、人間の健康を代々に渡って阻害し、動植物や森林を滅亡に導いている。生物界で一番インテリジェントであるはずの人間は、常に付け焼き刃の研究開発しかしていない。目先の利益だけを追求する近視眼的発想だ。人間が億年単位、せめて千年単位で科学技術開発を考えることはあるのだろうか。いや、そんなことは可能なのだろうか、という疑問が先に立つ。
地球に主体性があり意思があり、憲法があったなら、先のような悪行三昧の我々人類は「極刑」だろう。だが、地球はあくまでも事態を静観するだけ。いや、刑の執行は既に始まっているとも。何せ、たっぷり時間をかけるのが地球流なのだから。
夥しい数の生物種が地球上に存在するが、異端なのは人間だけ、正統でないのは人間だけ、のように感じられる。今後も科学は発展し続けるだろう。我々の生活を「便利」にし、「より良く」してくれている事を否定はしない。だが、この非正統派の人間が地球上の生物分布を加速的に変えるパワーを持っていることは事実だ。人間はそれをしっかりと認識すべきである。流行の言葉で言うならば、サステナビリティ(sustainability)、持続可能性。目先の利益追いを止めたなら、この持続可能の「時間範囲」をできるだけ長いスパンで考えられるようになるはずだ。地球寿命に関する天文学上の学説は別として、今後何十億年と続くかもしれない地球上の人間の営みを人間自身が想像力をもって考える努力をすれば、もっともっと地球に対し謙虚な気持ちになれるのではないだろうか。
オマージュなど身の程知らずであることは重々承知の上で、レヴィ=ストロース氏へ贈る。
「人間が死滅しても地球が涙することはない、地球は残りの生物とともに淡々と歩み続けるだけだ」
お腹休日と英語漬け

09年10月29日:木

鉄の胃袋を誇っていたつもりだったが、急性胃腸炎に。食あたりが主な原因だと推測したが、友達はストレスや精神的なこともあるわよと。ふむ。あとは歳。いつまでも若くはないというより、もうトシなのだという証拠。トホホ。夫は、鉄の胃袋を返上し、アルミの胃袋ぐらいにしたらどうかとアドバイス。これってアドバイスなんでしょうかね(疑)。
処方薬は3日分。耐性の関係もあり、最後まで飲みきるようにとの看護士命令。Yes, I will.素直に。。副作用のためか、胃腸の働きが緩慢に。胃袋の膨満感も煩わしい。でも食欲はある(笑)。

膨満感が最たる日、その日はスローdayに決定。久しぶりに満喫のゆったり感。昼食後、衛星放送で映画三昧を決め込むが、どれも見たものばかりで今ひとつ。でも一つ選ぼうとチャンネルルーレット。

で、『プロヴァンスの贈りもの』に決定。監督は『ブレードランナー』のリドリー・スコット。彼にしては異色のロマコメ(変換して最初に出たのが「露真米」(笑)。異色といえば、主演のラッセル・クロウも珍しくロマンスコメディに挑戦の映画。ロマンスの相手は『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』でオスカーを受賞したマリオン・コティヤール。そういえば3人ともオスカー受賞者、なのだが、映画はフツー。でもプロヴァンスの景色と家の描写はなかなか。さすが映像の魔術師リドリー・スコット。
この映画はなんとバイリンガル放送。通常は字幕で見ている。完全バイリンガルとはとても言えない私(汗)。映画の内容によっては字幕を追いっぱなし(笑)。でもこの映画は以前に見ているし、こういうロマコメものはストーリー展開が単純明快。さして英語も難しくはないはず。とにかく日本語では演技が伝わらないし違和感がありすぎる。
特に大きな問題もなく見終えた。だが、久しぶりの英語音声映画で面白いことに気づいた。2つある。1つは、こういう手合いの映画は字幕の時も耳を傾けて英語で演技を聞いているつもりだったが、かなりの字幕カンニングに気づいたこと(笑)。字幕を頼りにすることはあっても、それはあくまでも「時々」だと思っていた。ところが少なくないカンニング事実を認めざるを得なくなった。いや、数の問題よりも質的な問題なのだが。
何故認めざるを得なくなったのか、それが気づいたことの2つめに関係する。2つめは、映画を見ている際、そうだこれが英語漬けの感覚なんだなと改めて気づかされたこと。字幕がないということは日本語が全くないということ。俳優が急に日本語セリフで喋るわけはない。頼れるのは自分の耳だけ。見た事があるとはいえ、時間がかなり経過しており、ストーリー展開も忘れているところがある。
英語だけなのだから、わからない単語や言葉は私の耳がそれを自然に通過させていた。通過させ、すぐに次のセリフを耳が追っていた。この繰り返しにより、ストーリーに大切な部分をあまり逃さずに済んだ気がした。セリフまわしの妙、セリフのタイミングと目線や表情、これらは映画鑑賞に必要不可欠な要素。わからない言葉を字幕で追ったほんの1秒の間に、この不可欠な要素をたくさん逃していたのだ。「あれ、こんなタイミングでこんなことを話していたんだ。前見た時もそうだったかな」とか、「この間合い、なかなか絶妙だけど、こんな場面あったかしらね」など。字幕から俳優の演技に目線を戻すまでの間は、面白いシーンを見逃すには十分な時間といえる。つまり、かなりカンニングに時間を取られていたということになる。今後の字幕映画の見方を改める気持ちになった。


「英語漬け」での映画鑑賞は外国語のイマージョン教育を思い起こさせる。「英語漬け」はイマージョンそのもの。環境を全て英語にすること、英語に浸りきった生活をおくること、こうして英語を修得させるプログラムだ。
考えてみると、日本在住の外国人の方々は「日本語漬け」、「日本語イマージョン教育」の可能性のど真ん中にいることになる。しかし、ふと私の周囲を見回すと、せっかくのその可能性、チャンスを使い切っていない人が半分以上。私が知る彼ら彼女らは100%英語圏。反面、この20年位の間で、日本語を話す英語圏の人がかなり増えたようにも思う。
日本に居るという、千載一遇のこのチャンスを何故活かさないのか? 答えは「興味」の問題。日本を嫌っているわけではないし、日本人の友達がいないわけでもない。というより、日本が大好き、ビジネス滞在でビザも更新予定、配偶者や恋人は日本人、というケースが多いぐらい。でも、恋人や配偶者は英語を話し、日本人の友達も英語で話しかける。ビジネスも英語で済んでいる。日本は好きだけど別に日本語は必要なし、なーんていうことなのか。

英語圏の人に厳しいという噂のフランス人。英語で話しかけてくる米英人にフランス語で返すのはパリでは常識だとか(東洋人だからか、私はそんな目には遭いませんでしたが)。日本でも同様のことをすれば変わるのか。いや、片言でも英語を喋る日本人は妙に英語を使いたがる、という事実もあるらしい。私もついつい英語で返してしまう(汗)。日本ではパリのようには行きますまい。やはり、こういう「厚遇」の下では、そのハードル?を超えて「興味」の世界には行きづらいのかも。
そういえば昔、W君という同僚がいた。当時アメリカ人の彼は在日歴12年。日本語は話せない。タクシーでも飲み屋でも「・・おねぐぁいします」で。日本人女性と結婚しコンドーも購入。新居のコンドーに引っ越したことを契機に日本語教室へ。彼がある日私に告白したのは、教室の仲間に自分は在日歴3ヶ月だと嘘をついた事(思わせたこと)。仲間は皆3ヶ月から半年だったそうだ。12年も住んでいて日本語ができない。あまりにも恥ずかしくて言えなかったのだと。新居に引っ越してから3ヶ月、これ幸いと?、この符合を利用し、「うん、えっと、ここに来てから3ヶ月」と濁したのだと。
彼が住んでいた頃は英語圏の人にとっては黄金時代とも。広告の世界でも英語圏のコピーライターに通訳のアシスタントが付いた。日本語は必要なし。コピーの才能を除けば、英語さえ話せればいい。しかしあれから時代は変わった。経済不況下の日本。日本語がわからないからといってアシスタントを付ける余裕はない。そのために失業した英語圏の人も個人的に知っている。
都合15年位日本に住んでいたという記憶だが、彼も「厚遇」を超えて「興味」に至るタイプではなかったのだろう。彼は10年以上も前に日本を離れ、今は家族全員でアメリカに住んでいる。彼にとってはその方が良かったと、心から思う。
さてと、スローdayも終わり。仕事、頑張らなくちゃ。

「フェア」な「トレード」行使のコーヒー購入運動

09年10月20日:火
「フェアトレード」商品のコーヒーを購入した。フェアトレードを日本語に直せば公正貿易。貿易の南北格差が指摘されている。有利なのは大手企業(流通その他)であり、開発途上国の小規模生産者や農園労働者は不利な立場に立たされ、正当な価格や賃金を得ているとはいえない。その是正をはかるべく登場したのがフェアトレード。
フェアトレード運動は60年ほど前にスタートし、今では世界各地で組織化され、日本にも「特定非営利活動法人フェアトレード・ラベル・ジャパン」が設立されている。上記のマークがフェアトレード取引商品の証。コーヒー、紅茶、バナナ、チョコレート、切り花、サッカーボールなどにこのマークが増えているらしい。
同法人のサイトからフェアトレードの認証が与えられているコーヒーを探した。イオン、スタバ、タリーズなど、大手有名どころも名を連ねていた。これまで、安くて美味しいという理由で20年以上買い続けてきた通販の「ブルックス」。フェアトレード認証のコーヒーは、安いものでもブルックスの2倍。う〜〜〜む、家計に響く。でも、まずはフェアトレードを應援。

そして最初に選んだのは「エクセレントコーヒ」。コーヒーは4種類。グアテマラ、エチオピア、ニカラグア。フェアトレード対象商品ではないコロンビアも試しに購入。コロンビアはブルックスでずっと購入してきた豆なので比較を。
エチオピアを飲んでみたが、いまいち。グァテマラとニカラグアはまぁまぁ。
フェアトレードも順風満帆とはいえないようだ。値段、納期、品質など、様々な問題点を指摘されている。しかし、フェアなトレードを確立させるためには、その対象商品を購入し應援する必要がある。微力ながらしばらく続けてみようと思う。我が家のフェアトレードサポートは始まったばかり。
さーて、エクセレントコーヒーの後はどこにしましょうかね。
パートという正規雇用
09年10月04日:日
日本の労働者は3人に1人が非正規雇用だと言われる。私が会社員だった頃は終身雇用が当然だったが、今やそれは過去の産物。パートタイム労働者(派遣、フリーターなど全てを含む)の立場は不安定で、景気低迷に伴っていつ解雇されるかわからない。また、正規雇用者と同等の仕事をしていても収入の格差もある。雇用の不安定さは、家庭を持つ、マンションを購入するなど、社会人なら普通に求める事を遠のかせる。銀行の保証は得られず、住宅ローンは夢と化す。
パートタイム労働者。日本では暗く重々しい響きとなって伝わってくる。だが、半数近くをパート労働者で占める国があるそうだ。オランダである。女性に至ってはパートの比率は7割を超える。先進諸国との比較でも群を抜いているとのこと。パートが一般化しているオランダでは、パートも手厚く保護される。非正規と正規の間に深刻な格差はなく、ここが日本との大きな違いといえる。「パート型正規雇用」とでも命名できよう。オランダではパートもある意味においては「正規雇用」なのだ。
オランダの政策がベストかどうかはわからないが、手本にするべきところはあると思う。ただ、日本においてのパート労働者の地位を安定させるには、その根本の経済の歯車が上手く回転するように立て直す必要があると思う。健康体とはいえない企業にパートの地位向上を求めるのは難しい。健康体ではないからこそ非正規労働者を導入しているのである。企業努力、政治努力。どちらがニワトリで、どちらがタマゴなのか。だがもう一つの努力を上げたい。それはやはり個人の努力。経済再建を待っているだけでなく、自分自身の再建もしてみたらどうだろうか。自分のキャリアの棚卸し、自分の適正や特性を改めて探ってみる価値はあると思う。私の周囲にも「本来の特性」からかけ離れた仕事をしている人が少なからずいる。もっと「自分自身に近づく」ことを求めたい。
パートタイム労働者。日本では暗く重々しい響きとなって伝わってくる。だが、半数近くをパート労働者で占める国があるそうだ。オランダである。女性に至ってはパートの比率は7割を超える。先進諸国との比較でも群を抜いているとのこと。パートが一般化しているオランダでは、パートも手厚く保護される。非正規と正規の間に深刻な格差はなく、ここが日本との大きな違いといえる。「パート型正規雇用」とでも命名できよう。オランダではパートもある意味においては「正規雇用」なのだ。
オランダの政策がベストかどうかはわからないが、手本にするべきところはあると思う。ただ、日本においてのパート労働者の地位を安定させるには、その根本の経済の歯車が上手く回転するように立て直す必要があると思う。健康体とはいえない企業にパートの地位向上を求めるのは難しい。健康体ではないからこそ非正規労働者を導入しているのである。企業努力、政治努力。どちらがニワトリで、どちらがタマゴなのか。だがもう一つの努力を上げたい。それはやはり個人の努力。経済再建を待っているだけでなく、自分自身の再建もしてみたらどうだろうか。自分のキャリアの棚卸し、自分の適正や特性を改めて探ってみる価値はあると思う。私の周囲にも「本来の特性」からかけ離れた仕事をしている人が少なからずいる。もっと「自分自身に近づく」ことを求めたい。
”こんかつ”&”しゅうかつ”

09年10月03日:土
タイトルの「こんかつ」「しゅうかつ」に漢字を当てはめるクイズ。1秒もかからずにわかった方はその当事者?あるいはテレビを見て?。数秒間かかった方は非当事者とも。正解を焦らすほどの出題でもなし。それぞれの回答は「婚活」「就活」。
両者とも、若き日の私の時代にはなかった言葉。「就活」という概念はもちろんあったが、今日のようなシビアさはない。新卒大学生の4月入社が一般的だった昔と違い、企業は通年採用に切り替えた。就職浪人、内定取消、フリーター、ニートなど、職に就きたいのに正規雇用への道はどんどん細くなっていく今日。
もう一方の「婚活」。全体は掴めていないけれど、イメージとしては、世話好き親戚を通じてせっせとお見合いをこなす、合コンに奔走、友人知人からの紹介、大手結婚相談業者に入会金を支払って登録、などだろうか。
でも、私の周囲にいる「結婚したい願望」の友人知人は、上記のいずれにも当てはまらない。彼ら(彼女ら)は「自然な出会い」を求めている。一説によると、社内結婚では男性の総合職と女性の一般職というカップルが主流だった男女雇用機会均等法前。ところが均等法後はこの図式が崩れたのだとか。一理ある気がする。
私の周囲の結婚願望人の中の女性たちはパートナー志向。パートナー志向が強い反面、古風さをも持ち合わせる女性たちである。敢えて差別的古い言葉を使うなら、男なみにバリバリ仕事をし、男なみに豪遊し、男なみに部下や友人知人に頼られる存在、なのだが、結婚したら料理やら何やらで夫に尽くしたいと考えている。結婚後は築いたキャリアなどゴミ同然に捨てられると明言する女性、夫のために仕事は縮小と考える女性もいる。均等法後、女性の表面的要素は男性と同じになったが、心に描く結婚像は旧来の形を維持している。
では、男性側の結婚願望人はどうか。男性と同等になった女性の表面的要素に怖れをなし、近付き難い、デートに誘う勇気がない、という人は多いように感じられる。また男性は結婚相手の女性に対し自分よりも「低い」ことを望んでいるように思う。収入や社会的地位、背丈も(笑)。「パートナー」である前に「奥さん」であって欲しい。奥さんとは文字通り「奥にいる人」で、料理や家事など奥の仕事に徹して欲しい、人前では夫を立てて欲しい、などなど。均等法成立後20年以上も経ている現在であってもだ。ぶっちゃけ、今も男性は「強い女性」が苦手なのだろう。精神的に強い女性はオーケーかもしれないが、求める女性は極端に古風でなくともやはり、控えめ、がいいのだろうという推測に至る。
内面の古風さを持つ私の周囲の女性たち。それに男性が気付けば、私の周囲の男女たちで1組2組ぐらいゴールインがありそうなんですが、こればかりはご縁の問題、ですよね(^_~).。
両者とも、若き日の私の時代にはなかった言葉。「就活」という概念はもちろんあったが、今日のようなシビアさはない。新卒大学生の4月入社が一般的だった昔と違い、企業は通年採用に切り替えた。就職浪人、内定取消、フリーター、ニートなど、職に就きたいのに正規雇用への道はどんどん細くなっていく今日。
もう一方の「婚活」。全体は掴めていないけれど、イメージとしては、世話好き親戚を通じてせっせとお見合いをこなす、合コンに奔走、友人知人からの紹介、大手結婚相談業者に入会金を支払って登録、などだろうか。
でも、私の周囲にいる「結婚したい願望」の友人知人は、上記のいずれにも当てはまらない。彼ら(彼女ら)は「自然な出会い」を求めている。一説によると、社内結婚では男性の総合職と女性の一般職というカップルが主流だった男女雇用機会均等法前。ところが均等法後はこの図式が崩れたのだとか。一理ある気がする。
私の周囲の結婚願望人の中の女性たちはパートナー志向。パートナー志向が強い反面、古風さをも持ち合わせる女性たちである。敢えて差別的古い言葉を使うなら、男なみにバリバリ仕事をし、男なみに豪遊し、男なみに部下や友人知人に頼られる存在、なのだが、結婚したら料理やら何やらで夫に尽くしたいと考えている。結婚後は築いたキャリアなどゴミ同然に捨てられると明言する女性、夫のために仕事は縮小と考える女性もいる。均等法後、女性の表面的要素は男性と同じになったが、心に描く結婚像は旧来の形を維持している。
では、男性側の結婚願望人はどうか。男性と同等になった女性の表面的要素に怖れをなし、近付き難い、デートに誘う勇気がない、という人は多いように感じられる。また男性は結婚相手の女性に対し自分よりも「低い」ことを望んでいるように思う。収入や社会的地位、背丈も(笑)。「パートナー」である前に「奥さん」であって欲しい。奥さんとは文字通り「奥にいる人」で、料理や家事など奥の仕事に徹して欲しい、人前では夫を立てて欲しい、などなど。均等法成立後20年以上も経ている現在であってもだ。ぶっちゃけ、今も男性は「強い女性」が苦手なのだろう。精神的に強い女性はオーケーかもしれないが、求める女性は極端に古風でなくともやはり、控えめ、がいいのだろうという推測に至る。
内面の古風さを持つ私の周囲の女性たち。それに男性が気付けば、私の周囲の男女たちで1組2組ぐらいゴールインがありそうなんですが、こればかりはご縁の問題、ですよね(^_~).。
農業後継者難
09年09月24日:木
犬の散歩道の途中にある梨園。昨年まで、80代と思われる夫婦が営んでいた。リヤカーに梨を乗せての収穫の帰り道と犬の散歩時間が重なることもしばしば。金婚式など遥か昔と見受けられる老夫婦。柔和な笑顔で、リヤカー座席から丹精込めて栽培した梨のお裾分けをいただく。夫婦も犬を飼っている。しばし犬の話になる事も。
梨の季節はそんなひとときを楽しみにしていたが、今年からは叶わぬ夢となった。梨園が無惨な姿に。廃業か。お子さんは跡を継がなかったのだろうか? 親戚は? 梨園として第三者に譲渡はできなかったのか? 様々な疑問が浮かぶ。
あの優しい笑顔、大先輩に対し失礼ながらとても可愛らしい老夫婦の二人三脚、あのリヤカーを見ることはないのかと思うと寂しい。年をとったらあんなふうな「じいちゃん、ばあちゃん」になりたいねと、夫とよく話をした。だのに突然。なんだか寂し過ぎる。
果樹園放置は害獣とされるタヌキなどをいたずらに招いてしまう結果となり、近隣の梨園に迷惑がかかるということなのかどうか、のれんを下ろした途端、情け容赦のない造成作業。長年育て上げて立派に太った幹を持つ梨の木が根元から切り刻まれ、この写真の数日後には根も全て抜かれていた。
後継者難は農業全体に言えること。稲作農家も同様。農業従事者の高齢化、農業従事者の大半が兼業農家であり、専業農家は少ない。兼業農家は企業に雇用される「会社員」の顔を持つ。農業を中心とする第一次産業が経済の主要部門であった昭和20年代。その頃産まれた団塊の世代のほとんどが会社員に。今では会社員2世、3世も。親の代は専業農家だと答える人はほとんどいないだろう。
余談だが、「親の背中を見て育つ」という言い習わしはもう通じないように思える。農業や地域を担う商店街自営など、これらが盛んな時代にこそ当てはまる言葉ではないだろうか。家で親の手伝いをしながら、働く親の背中を見、そこから何か生き方のヒントを得ていた。将来は家業を継いで「百姓」に、「海苔屋」に、「金物屋」に、「酒屋」に、という声は激減している。「親」の大半は会社員である今日、働く背中を見せることはない。家にいる時はオフタイムであり、本来的意味の「背中」ではない。仕事で忙しい会社員の親は、週末の「家族サービス」に努める。
以前、「会社のお父さん訪問」という企画をニュースで見たことがある。てきぱきと仕事をこなす父親の姿。インタビューに応じた小学生の子供が、「お父さん、かっこいい」と照れながら答えていた。家で遊んでくれる父親しか知らない子供達に親の背中を見せようという企画だったのだろう。会社員の親は、背中の代わりに「教育」を子供に与える。将来どんな職業に就くにしても、まずは「大学だけは行っておけ」というような。子育て経験のない私には言えた義理ではないが、社会学リサーチからもこの事実は指摘されている。
私が住む近隣も小作農、家族経営という日本の農業の典型。稲刈りの中心世代は50代から70代位まで。子供たちは成人して都会で会社員。その子らが水田を耕してくれる保証はない。ここでもたくさん「背中」が消えて行く。
人生満足曲線のススメ



09年09月12日:土
私は厚生労働省が認定し、㈳産業カウンセラー協会が発行する「産業カウンセラー」の資格を持っています。
人のメンタルに関わる資格故、取って終わりとは決してならず、常なる学びが当然のように求められ、そこに資格更新制度なるものが存在します。協会が用意するポイント制の様々な講座を受講し、一定のポイント数獲得により資格更新が認められるのです。
逆を言えば、一定のポイント数に達しないと資格剥奪となってしまいます。ひえぇー 汗。
上図の「満足曲線」は最近受講した講座でのもの。人生を振り返り、満足度合いを線で描く満足曲線。図をクリックし、プリントアウトしたものにご自分の「満足曲線」を描いてみてください。講座受講者の年齢で作成されたためか、70代後半から80代がありませんので、該当年齢の方は紙を付け足してください。

描き方の説明は不要でしょうが、一応簡単に。縦線の上部ほど満足度は高く、下へ行けば行くほど低くなります。42歳の花子さんという架空の人物をでっち上げ、見本を作りました。
花子さんの満足度が高い年代は20代から30代前半まで。30代後半の何か大きな人生の転機により満足度ががぐっと低く落ち込み、1〜2年横ばいの後にまた少々落ちて40代に突入。42年の人生の中でいうと、最も低い満足が40歳から現在の42歳まで続いている様子。
満足曲線の目的は、自らの「人生のふり返り」をし、「今、ここ」の自分の立ち位置をしっかりと見つめ、「これから」を描いてもらい、そのための具体的な人生設計を「描く・書く」ため。
**9月10日はWHO世界保険機関が定めた「世界自殺予防デー」。NHKニュースでも報道されましたが、産業カウンセラー協会は10日から12日まで、働く人の自殺を防ぐ目的で無料電話相談を行っています。警視庁の統計によると、日本の自殺者数は、11年連続で3万人を超えています。
経済危機による非正規雇用の増大、正社員の労働時間増大、企業内失業者増大、低年収のため親元から自立できないフリーターやニート。労働者を取り巻く環境は厳しいものがあります。当協会のアンケート調査では、企業内にメンタル不調者が増加しているとの回答が全体の7割を占めたそうです。
企業内、企業の外でも、カウンセラーが求められています。不況が労働者のカウンセリング需要をより増大させるにもかかわらず、不況はカウンセラーを雇う余裕のない企業をも増やすのです。なんとも皮肉な状況です。
人生の午後とゴーギャン・コンプレックス

09年09月02日:水
フロイト:精神分析学者。性格は児童期までに確定し成人期には固定すると説いた。
ユング:分析心理学者。人生を太陽の動きに喩え、40歳は「人生の正午」、その後は「人生の午後」。人生の午後の意義は、「自己」に対する「真剣な考察」をする時。フロイトに師事するも、学問的見解相違により袂を分かつ結果となるユング。フロイトよりも19歳若い。
ゴーギャン:画家。43歳で故郷フランスと妻子を捨て、タヒチに渡った。これが有名な「ゴーギャン・コンプレックス」。別名「中年期の危機」。フロイトよりも8歳年上だがほぼ同時代の人。
フロイトがいた19世紀〜20世紀前半と今日21世紀、環境変化は大きい。世界情勢の変化、寿命の変化。後者は成人・老人の人口増大をもたらし、フロイトの説く「性格の固定時期」を過ぎても人は固定せず。今日、心理学の世界、特に発達心理学では「生涯発達心理学」の方向に。生涯のあらゆる時期においても発達し続けることが明らかになり、老年期にいたるまで研究が進んでいる。
ユング説に当てはめると、ゴーギャンは「人生の午後」に「自己考察」し、西洋と妻子を捨てた。19世紀で既に生涯発達心理学の先取り? 芸術家は一般の人とは違うから、という理由も成立しうるけれど。
私自身:「人生の正午」は既に東京を離れてこの地に。自己考察、もちろんあり。その結果に大満足。「人生の午後」、今は中年期。キャリア面における葛藤は少々ありながらも、大きな迷いはなし。中年期の危機というほどのことは特になかったように感じる。老年期に向け、どう「生涯発達」するのか、その時も「ぶれ」のない自分でいたいと思う。
人生80年の時代。まだ現役で働いている間に「人生の午後」を迎えることは間違い無し。ほぼ100%の人に言える事。がむしゃらに働いている40代50代よりも、「働かなくてもいい時間」がたっぷりある老年期からの方が、時間を長く感じるようになるのではないかと。
僭越ながら言いたい事。人生の午後に入ったならば、老年期を含めた「午後」は「何処でどう暮らしたいか」を視野に入れ、働きながらもその方向に向けて何らかの行動を取る事が必要だと感じる。
仕事で忙しい、まだ若い、などを言い訳にせず、現役の今だからこそ敢えて未来の「自己考察」を勧めたいと思う。
ユング:分析心理学者。人生を太陽の動きに喩え、40歳は「人生の正午」、その後は「人生の午後」。人生の午後の意義は、「自己」に対する「真剣な考察」をする時。フロイトに師事するも、学問的見解相違により袂を分かつ結果となるユング。フロイトよりも19歳若い。
ゴーギャン:画家。43歳で故郷フランスと妻子を捨て、タヒチに渡った。これが有名な「ゴーギャン・コンプレックス」。別名「中年期の危機」。フロイトよりも8歳年上だがほぼ同時代の人。
フロイトがいた19世紀〜20世紀前半と今日21世紀、環境変化は大きい。世界情勢の変化、寿命の変化。後者は成人・老人の人口増大をもたらし、フロイトの説く「性格の固定時期」を過ぎても人は固定せず。今日、心理学の世界、特に発達心理学では「生涯発達心理学」の方向に。生涯のあらゆる時期においても発達し続けることが明らかになり、老年期にいたるまで研究が進んでいる。
ユング説に当てはめると、ゴーギャンは「人生の午後」に「自己考察」し、西洋と妻子を捨てた。19世紀で既に生涯発達心理学の先取り? 芸術家は一般の人とは違うから、という理由も成立しうるけれど。
私自身:「人生の正午」は既に東京を離れてこの地に。自己考察、もちろんあり。その結果に大満足。「人生の午後」、今は中年期。キャリア面における葛藤は少々ありながらも、大きな迷いはなし。中年期の危機というほどのことは特になかったように感じる。老年期に向け、どう「生涯発達」するのか、その時も「ぶれ」のない自分でいたいと思う。
人生80年の時代。まだ現役で働いている間に「人生の午後」を迎えることは間違い無し。ほぼ100%の人に言える事。がむしゃらに働いている40代50代よりも、「働かなくてもいい時間」がたっぷりある老年期からの方が、時間を長く感じるようになるのではないかと。
僭越ながら言いたい事。人生の午後に入ったならば、老年期を含めた「午後」は「何処でどう暮らしたいか」を視野に入れ、働きながらもその方向に向けて何らかの行動を取る事が必要だと感じる。
仕事で忙しい、まだ若い、などを言い訳にせず、現役の今だからこそ敢えて未来の「自己考察」を勧めたいと思う。