「子供」と自分の人生WinkingHappyLaugh

私には子供はいないが、特に後悔はない。子供がいたら、それはそれで楽しかったのかもしれないとは思うが、子供のことで深刻な悩みを抱える友人知人の話を聞くと、子を育むということは決して簡単なことではなく、育て上げるという重要な責任・義務を伴っているのだと感じさせられ、私には不向きな”業”であるようにも思えてくる。

ジャック・ニコルソン主演の
『アバウト・シュミット』2002年は、”自分軸”から「子供」を見つめる意義深い映画である。監督はアレクサンダー・ペイン。

何十年もの間一流保険会社の計理士として働いてきたウォーレン・シュミット(ニコルソン)。そして定年を迎える。大勢の部下や同僚の暖かい拍手で見送られるシュミット。若手に引き継いだ仕事のことも気になり、後継者の質問攻めを期待して会社に赴くが、元職場は全く問題なく運営されており、肩すかしを食らう。そればかりか、シュミットの書類がガレージで山積みにされており、焼却処分を待っている状態。66歳のシュミットはもう不要だと言わんばかりに。そして追い打ちをかけるように今度は妻の死。

妻に先立たれたシュミットに残された家族は最愛の一人娘ジーニー。だが、ジーニーも間もなく結婚をする運びに。シュミットは娘の婚約者ランドールを好んではおらず、結婚式が目前に迫りつつあるというのにも拘らず取りやめを哀願するぐらいだ。もちろん娘のジーニーは呆れ返る。

そんな中、アフリカの恵まれない子供を支援するチャリティ団体をテレビで知る。月々22ドルの支援。手紙と小切手を添えて送る。彼が支援する子供の名は「ンドゥグ」という6歳の男の子。会社組織には不要の身、妻の死、ロクでもない男と結婚する娘、四面楚歌、あるいは逆境とでもいうのか、自分自身を見失いそうになる中でンドゥグは彼の生き甲斐となっていく。折に触れ、シュミットは何度も手紙を書いた。憤懣を書いては破り捨てることもある。だが、手紙を書く事で彼は心のバランスを取っていたのであろう。

サラリーマン人生。自分は会社にとって何だったのだろうか、何かを残せたのだろうかと自問自答する日々。そして伴侶の死。定年後の妻との楽しい引退生活も泡となって消える。仕事人生の中、妻に何をしてあげられたのだろうかとまたまた自問自答する。子供の結婚。好みの娘婿ではないが、愛娘が選んだのだからと、諦めにも似た気持ちで”無難”なスピーチを結婚式で披露するシュミット。サラリーマン時代も平凡だっただろうシュミットの、定年退職後もまた平凡である人生。その平凡な人生とはなんと素晴らしく得難いことなのだろうという、とても奥深い映画だ。

エンディングのシーンは秀逸。ニコルソンだからこそ演じられたと言っても過言ではない気がするぐらいである(ネタバレですが)。何度か送り続けた手紙に対し、チャリティ団体から初めて手紙が届く。手紙は団体の事務局が書いたもの。ンドゥグは文字の読み書きができない。返事が書けない代わりに一枚の絵を描き、それが同封されていた。青空の下、大人と子供が手をつないでいる絵。カメラアングルはシュミットの顔のアップ。絵を見る彼の表情がゆっくり緩み、泣き笑いにも似た涙顔になる。その絵に何を感じたのか。どんな愛やメッセージが汲み取れたのか。察するに、たぶん監督は「あなたの思うように、どうぞ」とニコルソンに投げかけたのではないだろうか。

未来のいつか、その日が来るか来ないかはわからないけれど、こうした「子供」の持ち方も悪くないなと感じる。

親子の絆を問いかけた女優賞WinkingHappyLaugh

日本国内ではこのところ、親の虐待による幼児の死がいくつも報道されている。痛ましい限りである。もちろん、親も完璧ではない。物心がつけば、たとえ幼子であっても一人前に減らず口を叩き、親を困らせることもあるだろう。時にはそれに腹立たしさを感じたり、躾の一環で叱ったつもりがつい感情的になり、お尻をぴしゃっと叩いてしまうこともあるだろう。でもその後は大きな後悔に苛まれ、また、子供を狂おしいほどに抱きしめたくなるなど、こうした懺悔にも似た気持ちになるのが”通常”の親ではないだろうか。

一方、ハリウッドに目を転じてみると、今年のアカデミー賞の主演女優賞・助演女優賞は、そうした日本に何らかのメッセージでも送っているかのように、受賞の役柄はともに「母親」だった。

助演女優賞獲得はモニーク。黒人の母子間で、娘に暴力を振るう母親役を演じた。娘は父に妊娠させられ、母親からは虐待を受け、字も読めないという16歳、という設定らしい。映画のタイトルは
『プレシャス』

主演女優賞は、サンドラ・ブロック。こちらは、裕福な白人の母親がホームレス同然の黒人の少年を家族に迎え入れる話。実話に基づく映画でタイトルは
『しあわせの隠れ場所』。白人の彼女に引き取られるまで、ベッドで寝た事がないという貧しい少年。そんな彼に勉学の機会を与え、彼の仲間の脅しにも屈することなく、アメリカンフットボールのプロ選手への道を切り開いてあげた。

親が実の子に暴力をふるう映画。一方は血のつながりのない、そして人種を越えた親子の愛情劇。この両極の親子像にオスカーが与えられた。オスカーを受賞したサンドラ・ブロックは、人種その他の要素に関係なく自分の子供として育てた親たちに敬意を表する内容のスピーチをしていた。

授賞式の当日は、WOWOWにチャンネルを合わせ、アカデミー賞の生放送を見た。私の祈りが届いたのか、サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲得しとても嬉しかった。ノミネート常連の大女優、メリル・ストリープを押しのけての受賞だけに、テレビの前で思わず拍手をしてしまった(笑)。サンドラ・ブロックは悪く言うと演技の幅はそれほどないと思う。そこはメリル・ストリープにはかなわないだろう。でも、私は何故かサンドラ・ブロックが個人的に好きである。理由は「良い人」だと感じられるから。気さくで楽しくて心も温かい人という気がする。しかもかなり頭が良い人だと確信する。スピーチで他の候補者に賛辞を贈るだけでなく、強敵のメリルには格別の”挨拶”もある。またマスコミの対応も巧く、そつがない。誰に対しても大スター気取りのない対応は、スマートでなければできない技だ。また40代半ばの彼女は、この年代でとしては映画のプロデュースを手がける女性プロデューサーの草分け的存在なのだそうだ。演じるだけでなく制作に携わる。マスコミにも共演陣にも、ライバルとも良い関係を築いていく。さすが、だ。

気さくといえば、サンドラ・ブロックはアカデミー賞授賞式前日に開催される「ラジー賞」、別名「最悪映画賞」授賞式に顔を出した。もちろん受賞作はオスカー受賞の映画ではなく、『All about Steve』。この映画で不名誉な最悪女優賞に輝いてしまった彼女(笑)。通常、コケにされるこの賞の授賞式に出席するセレブはいない。だが、彼女はステージに登場。しかも大きな台車にラジー賞獲得の映画DVDをたくさん乗せて持ち込み、会場の人々に配るという。スピーチはとても彼女らしくて面白い。「ハリウッド(この場合ラジー賞)って、出席すると言ったら賞まで受賞できるのね。それならずっと前にアカデミー賞にだって出席すると言ったのにね」。アカデミー賞にずっと縁がなかった彼女ならではの自虐的ギャグ(笑)。オスカーとラジー、両方の”名誉”に同時に輝き、両方の授賞式に出席したのは、サンドラが初めてなのではないだろうか。

YouTubeのラジー賞受賞の模様。是非ご覧あれ。
http://www.youtube.com/watch?v=adYced7GB8k&feature=player_embedded

成長国の表裏SadEmbarrassedGasp

昨年のアカデミー賞は、ブラピ率いるデヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』が有望視されていたにも拘らず、作品賞や監督賞など主要部門をさらったのは、ダニー・ボイル監督の『スラムドッグ$ミリオネア』だった。嬉しいダークホース、である。

スラム街出身の青年がテレビのクイズショーで賞金を次々に勝ち取っていくというストーリーだ。日本では、みのもんたでお馴染みの「ファイナルアンサー?」という、アレ。

スラム街で育ち、無学のはず、の彼が何故そこまでクイズに正解してしまうのか。インチキ、カンニング、様々な憶測が飛び交い、取り調べまでに発展してしまう。だが、主人公ジャマールの正答継続には理由があった。それはジャマールと同じスラムで育った幼なじみで初恋の女の子ラティカー。子供のときに離ればなれになる二人。だがジャマールはずっと彼女を探し求めてきた。その彼の旅路の中にその理由があり、クイズの出題と彼の人生はピタリと重なるのである。

中国と同様に、経済発展の著しいインド。人口は11億人。だが、成長途上には陰と陽、光と陰はつきものである。この映画でもスラムの様子が映し出される。知識層にしてみれば、インドは一種の”英語圏”。IT業界におけるインドの活躍は世界規模である。それとは裏腹に、こうしたスラムもまだ存在しているのだと感じさせた。

上記の光と陰以外にも、こうした映画で問題視されることがあると聞く。それは、スラム街の子供を映画に起用した後の、”アフターケア”だという。つまり、ギャラの管理の問題である。ハリウッドなど”西側”の映画に出演した場合、スラム生活者にとってギャラは大金である。エージェントが割り込んできて出演料を搾取し、起用された子供にそのお金が行き渡らない、また、映画製作側自身が搾取するケースもあるという。この映画でそんなことはなかったと信じてはいるが。

なかなか見応えのある映画だと思う。過酷な幼少期、そして厳しい生活。だが、それを狂おしいまでの愛でパワーに変え、運命を切り開いて行く感動の物語である。インド映画といえばダンス。エンディングのダンスも楽しい。

明日はアカデミー賞発表。サンドラ・ブロックに是非主演女優賞を取って欲しい。それ以外は今のところ?

おかっぱヘアの殺人鬼Foot in MouthEmbarrassedAngry

「お金と殺人」がストーリーの根幹にある映画を二つ。監督・脚本は、かのジョエル・コーエンとイーサン・コーエン兄弟。一つは『ノーカントリー』2007年、もう一つは『ファーゴ』1996年。

『ノーカントリー』は血も凍るようなプロフェッショナルな殺人鬼。一方の『ファーゴ』は、堂に入った殺し屋家業の動きとは決して言えず、滑稽さをも感じさせるが、シーン後に何とは知れず悪寒が走る。また両者には、音楽・音響面での面白い違いがある。『ノーカントリー』では、音楽らしきものはかなり割愛し、自然に聞こえてくる環境音がメインになっている。だが一方の『ファーゴ』は、サントラが効果を上げる。弦楽器が奏でる哀しげな調べに乗せ、舞台となるアメリカ中部の雪景色が映し出される。時には雪道を走るパトカーとその寂しげなメロディが重なり合う。

『ノーカントリー』で異彩を放ったのは、殺し屋役のハビエル・バルデム。通常、映画で描かれる殺人鬼のヘアスタイルを想像すると、髪は短いか長いか、のどちらかではないだろうか。基本はすごく「男」を意識させる雰囲気。角刈りだったり、ボールドヘアだったり。長髪の場合は、ぎしっと後ろで束ねたストレート長髪、真ん中分けの束ねないロングストレートヘア、ちょっとカールがかかったミディの長さヘア、など、か。


murderer
だが、2007年の『ノーカントリー』では、殺人鬼はおかっぱヘア(笑)。演出家、ヘアメーク、キャスティングプロデューサー、何れが活躍したのか、この意表をつくヘアスタイルは、先述の殺人鬼ヘアスタイルの定義を根底から崩したように思う。

このあり得ない?ヘアスタイルは、ハビエル・バルデムとの組み合わせだからこそ”活き”ている気がする(笑)。かなり濃ゆいラテンの目鼻立ちにこのヘア。だが、そもそも二枚目のバルデムなのであり、他の映画では”普通”のヘアスタイルでそのハンサム度合いをしっかりと披露している。

大金の入った鞄を見つけて逃走する男。そのお金を取り戻すために雇われた殺し屋役のバルデム。ピストルやマシンガンが一般的?な凶器になるところだが、この殺人鬼が使う凶器は、ホース先端から圧縮した空気を一気に出す酸素ボンベのようなもの。この不思議な凶器を抱え、無表情でモーテルの廊下を歩く彼の姿はそれだけで恐怖感を煽る。

一方の『ファーゴ』。こちらは、”王道的”な殺し屋ヘアスタイル(笑)。この映画は脚本も素晴らしい。北欧系移民が多いと言われるアメリカ中部の町が舞台のため、話す英語も独特である。夫婦の会話、警察官同士のやりとり、聞き込み時の目撃者との会話は、不思議なリズムと響きがあって、滑稽な会話にすら感じさせる。英語がわからなくともそのユニークさと滑稽さは理解でき、充分楽しめると思う。

また、キャスティングも素晴らしい。最初は偽装身代金誘拐だったはずが、歯車が狂い始めて殺人事件へと発展する。誘拐事件を計画する役のウィリアム・H・メイシー。妻の父親が経営する中古車販売のセールスマネージャーで、いわばマスオさん状態。多額の借金返済に困窮し、偽装誘拐を企てる。誘拐を依頼した男がちょっとした手違いから人を次々と殺してしまう。計画が狂い、刑事まで介入してくる中、戸惑うどうしようもない男、小心者の男、この役をメイシーは巧みに演じている。そして殺人事件の担当刑事にはフランシス・マクドーマンド。妊娠7〜8ヶ月でお腹の大きい敏腕刑事役。アカデミー賞の主演女優賞獲得は大いに納得できる、傑出した演技だった。マクドーマンドの夫役、ジョン・キャロル・リンチもいい。切手の絵柄募集に応募する、のんびりとした専業主夫(多分)役である。出番はほんの5分程度ながらも、彼の存在があるだけで、通常はこの町は平和な町であり、血なまぐさい今回の連続殺人事件は希有な出来事なのだということを教えてくれる。

『ノーカントリー』は、アカデミー賞作品賞、監督賞他を獲得しただけでなく、ゴールデングローブ賞にも輝いた。バルデムは助演男優賞を獲得。『ファーゴ』はマクドーマンドの最優秀主演女優賞、脚本賞を獲得。私個人の意見としては、全体的に『ファーゴ』の方が映画として優れていたと感じる。だが、両方とも見る価値のある映画だと思う。是非ご覧いただきたい。

18世紀の”婚活”事情WinkingWinkingLaugh

イギリスの作家ジェーン・オースティン。映画化された彼女の作品の中で好きなものは2つある。ひとつは『プライドと偏見』。もう一つは『いつか晴れた日に』

両者に共通するコンセプトは「婚活」。18世紀から19世紀初頭の中流地主層に生きる女性たちの結婚事情を描いた映画である。この時代を簡単に説明すると、貴族という爵位はないものの、地主としての財産を持ち、働くことは下層の者という考えがあり、基本的に働かない。資産額や名家出身などによって、この階級の中でも多少の上下がある、といったところ。

女性の立場に至っては、21世紀の今と比較するとかなり手厳しいものがある。女性に財産相続権はない。詩の朗読やピアノなど、今で言う「花嫁修業」は女性のたしなみとしてある程度は必須。職業婦人になることは考えられないから、年頃になると、とにかくステキな男性に出会って結婚すること、これに限るという10代、20代をおくることになる。

オースイティンの小説は、この時代の女性たちの現状を、辛辣に、また揶揄を込めながらも愛情をもち、そして滑稽に表しているといえる。

『プライドと偏見』は2005年。主演はキーラ・ナイトレイで、彼女は5人姉妹の次女役。財産は土地のみで、この階級の中では決して資産家とはいえない家の5人姉妹の「婚活物語」である。資産家の独身男性が近くにやってくるという情報を耳にし、舞踏会に娘たちを送り込む母親。社交界に出るにはまだ少々早い末娘が、結婚をゲームのように捉えてはしゃぎ回るあどけなさ。自分の不器量を認め良縁に期待を抱いていない20代後半の女性は、資産家の御機嫌取りに奔走する小区域のしがない牧師と結婚を決める。悪い第一印象から始まりながらも、互いにどこか惹かれ始める気持ちが高まり、だがちょっとしたすれ違い、そしてプライドや偏見により、近づきそうになりながらも離れ、また惹かれる気持ちを感じながらも口論になってしまう男女。互いに惹かれ合った第一印象があるにも拘らず、控えめ過ぎることが仇となり、そこに友人の要らぬアドバイスなどが加わり、関係の進展が見られないままに過ごし、遠回りしてしまう男女。脇を固める俳優陣には資産家役のジュディ・デンチ。彼女の凄みと迫力ある演技も見どころ。5人姉妹をとにかく嫁がせることしか頭にない母親役のブレンダ・ブレッシンの演技は、見ているこちらが少々恥ずかしくなるぐらいに浅ましくて巧い(笑)。

『いつか晴れた日に』は1995年。主演はエマ・トンプソン、ヒュー・グラント。こちらも、お約束、の、女ばかり3姉妹。ある日父親が亡くなる。もちろん母と3姉妹には財産相続権はない。父親の先妻に息子がいて彼が相続権を持つ。父親は死の床で”女たち”のことをよろしく頼むと先妻の息子に言い残すが、息子の妻はしたたかで強欲。遺言なんか何のその、母と3姉妹をさっさと追い出し、家を乗っ取る。それでもどうにか田舎のコテージで新生活を始める母と3人姉妹。だが、男女の運命は複雑に絡み合う。強欲なあの妻の実の弟と、3姉妹の長女が恋仲になっていく。強欲な彼女はもちろん阻止に余念ははいが。なかなか結ばれない二人。様々な”人災”に遭遇し、それらに翻弄される二人。もどかしいばかりの二人に見ている方もイライラが募る(笑)。また、3姉妹の次女も恋をする。一時は本気だったはずの男が、財産がない次女をふってしまう。その次女を優しく見守る男性。果たしてこの恋のゆくえは、といったところ。気の強い次女役にはケイト・ウインスレット。控えめな長女とは対照的で、かなり情熱的な女性を好演している。

映画は両者ともにハッピーエンドを迎える。両オースティン映画は、勧善懲悪に近い。正直者、良い人、優しい人、そういう人たちが最後には必ず報われる。悪い側は経済的に懲らしめられることはないが、精神的には罰が待っている。悪いヤツに苛立を感じても、映画を見た後は、必ずや溜飲を下げること間違い無し(笑)。是非、連続でご覧いただきたい映画である。

アカデミー賞授賞式が近づいてきている。それに因むと、キーラ・ナイトレイは『プライドと偏見』で主演女優にノミネートされたが、オスカーの軍配は『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』のリース・ウィザースプーンに上がった。個人的にはキーラ・ナイトレイの方が良かったと思ったが。エマ・トンプソンも主演女優賞にノミネートされた。だが先のキーラ・ナイトレイと同様にオスカーを逃した。オスカーをさらったのは『デッドマン・ウォーキング』のスーザン・サランドン。こちらは納得できなくはない。

*『いつか晴れた日に』の監督は、アン・リー。カウボーイでゲイという2人の青年の長期にわたる愛を描き、アカデミー賞最優監督賞に輝いた『ブロークバック・マウンテン』の監督である。台湾(確か)人、つまりアジア人の彼が、18〜19世紀のイギリス、いわば西洋の時代劇を描いたという点にも注目したい。

バスタブでの愛WinkingHappyLaugh

第82回アカデミー賞が近づいてきている。授賞式は3月8日。ひとあし先に開催されたベルリン映画祭では、寺島しのぶが女優賞を受賞した。日本映画、頑張れ!

アカデミー賞は政治色が濃いとか、本物の映画賞はゴールデングローブ賞だ、という論議はもっともではあるが、WOWOWで生放送されるアカデミー賞は、やはり華やかで見ていて楽しい。

アカデミー賞受賞作の映画でお勧めをひとつ。アンソニー・ミンゲラ監督、1996年の
『イングリッシュ・ペイシェント』。出演は、レイフ・ファインズ、ジュリエット・ビノシュ、クリスティン・スコット・トーマス。ミンゲラは作品賞、監督賞、2つのオスカーを手にした。看護士役で素晴らしい演技を披露してくれたジュリエット・ビノシュは納得の助演女優賞を獲得。ノミネートはされたが、主演女優賞の栄冠獲得とならなかったクリスティン・スコット・トーマス。主演女優賞獲得が『ファーゴ』のフランシス・マクドーマンドと聞けば納得せざるを得ないのだが。夫ではない男性を好きになり、愛し始め、一線を越えるまで、この感情の変化と流れをクリスティン・スコット・トーマスはとても巧く演じている。

アンソニー・ミンゲラ監督といえば、比較的最近の映画で、2006年の
『こわれゆく世界の中で』がある。アカデミー賞には全く縁がなかったこの映画だが、個人的には好きである。出演はジュード・ロウ、ジュリエット・ビノシュ、ロビン・ライト・ペン。この映画も『イングリッシュ・ペイシェント』も、どちらも不倫を扱っている映画だが、ミンゲラが好きなテーマなのだろうか(笑)。

もう一つ、この両者に共通することがある。それは、不倫の二人が愛を交わす場所としてバスタブが登場すること。バスタブでは激しいラブシーンが展開されるのではなく、語らいの場なのだが。語らいとはいえどラブシーンではあるから、だっこちゃんスタイル(^^).。これまたミンゲラが好きなラブシーンの姿なのかもしれない(笑)。

愛し合っているはずなのに、空回りしてしまうカップルにジュード・ロウとロビン・ライト・ペン。ボスニアの英雄であった夫をなくし未亡人となり、息子とともにイギリスに亡命してきた役にジュリエット・ビノシュ。ふとしたきっかけでジュード・ロウとジュリエット・ビノシュは知り合い、そして深い関係になっていく。新しい愛の可能性を感じ始めるロウ。ロウと同様に、新しい愛に心をゆだねようとしながらも、とある事実からロウを疑い始めるビノシュは両者の葛藤に苦しむ。哀しさと愛しさ、その狭間にいる人々の心を描いた秀作である。

悲しい妻たちWinkingEmbarrassedSad

体型が似ているという理由だけでなく(笑)、俳優としても好きなひとりである、キャシー・ベイツ。迫力あるセリフをこなす実力はお墨付き。狂気の女性を演じたオスカー受賞の『ミザリー』(1990年)ではそのロールを遺憾なく発揮した。

今回のオススメは
『黙秘』(原題:Dolores Claiborne)テイラー・ハックフォード監督。1995年。原作はスティーブン・キング。

*ネタバレになりますので、ご覧になったことのない方はほどほどにお読みください(笑)。

キャシー・ベイツが演じるドロレス、ジュディ・パーフィットが演じるヴェラ。 この2人の中年女性がこのストーリーの重要な局面を作り上げる。 強く逞しい2人。だが夫婦愛には恵まれなかった悲しい妻たち。その2人が共有する秘密は「夫の死」。

ドロレス(キャシー・ベイツ)が大富豪の家で家政婦として働き、その大富豪の妻がヴェラ(ジュディ・バーフィット)。2人の関係はこうして始まる。

ドロレスの夫ジョーを演じるのはデイヴィッド・ストラザーン。実は彼も好きな俳優のひとり。ジョージ・クルーニー監督の『グッドナイト&グッドラック』(2005)年でもいぶし銀の演技で魅了してくれた。だが、この映画ではかなりの飲んだくれ亭主を演じている。妻のドロレスを、醜いだの、ブスだのと言っては罵倒し暴力も振るう。しかも中学生の一人娘(セリーナ)の学費をウイスキーのために使い込むだけでなく、娘に手を出そうとまでし始める。

一方のヴェラ。彼女の夫には愛人がいる。妻を完全無視。話しかけても見向きもしない。この夫役はかなり「ちょい役」。5秒ぐらい(笑)。
ヴェラ役のジュディ・バーフィットもどちらかというと脇役が多い俳優。でも名脇役のひとりと言える。威圧的セリフまわしには戦慄が走った。『真珠の耳飾りの少女』(2003年)では、冷たい眼差しと突き刺すようなブリティッシュアクセントで周囲に緊張感を与える、そんな役柄を堂々と演じた。名俳優の一人だと思う。

さて、核心の夫の死に入る。ある日、屋敷内で働くドロレスが泣いているのをヴェラが見つける。ドロレスの夫のことを知ったヴェラは自らの秘密を告白する。ヴェラは夫の車のブレーキにしかけをし、死に至らしめた。
「愛人宅からの帰り道、ブレーキが故障することってあるでしょう?」とにべもなく言い放つヴェラ。
そして、An accident, Dolores, can be an unhappy woman’s best friend. 「ドロレス、アクシデントは悲しい女の最良の友だちなのよ」と、ドロレスの顔を覗き込み、罪の世界に誘う。泣いていたドロレスのはずが、ヴェラの衝撃的な告白に驚き、泣いていたことすら忘れたような表情になる。このシーンとセリフは背筋がぞっとするぐらい良い(笑)。

そしてヴェラはさらに言葉を続ける。
Sometimes, Dolores, you have to be a high-riding bitch to survive. Sometimes, being a bitch is all a woman has to hang on to.
あくまでも私流の意訳ですが、「生き抜くためにはねドロレス、時には性悪女にならなくちゃあいけないのよ。そして時にはね、性悪でいることが女にとっては頼りの全てなのよ」、というような。怖っ(笑)。

このように、説得力のある「夫殺し」のアドバイスをもらったドロレス(笑)。彼女は月食の日にそれを実行に移す。ここでは詳述しないが、ドロレスが夫を殺したのではないかとずっと疑い続けている刑事役クリストファー・プラマーの役どころも見る価値がある。

お正月早々、夫殺しのサスペンス映画、というのもなんですが、是非ご覧いただきたいひとつです。
特に言い訳をする必要はないかもしれませんが、私自身はとても幸せな結婚生活を送っていますので(汗)(笑)。

これこそ、はまり役HappyWinkingLaugh

色々な役に挑戦し、その役を演じきる、これが俳優の務めなのだが、どの映画を見てもその役柄がピンと来ない、演技が下手なわけではない(時にはそういう俳優もいるが)のに心にしっくり感が届いてこない、こうした俳優がいる。

私にとってはその一人がトム・クルーズである。

『トップガン』『M : i シリーズ』『コラテラル』『バニラ・スカイ』などなど、高い興行収益を誇るトム・クルーズ。ショービジネス界で活躍した人の名が彫られる「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」にも殿堂入りを果たし、揺るぎのない人気を博する俳優ではあるのだが、私には上記のどの映画を見てもトム・クルーズ”らしさ”を感じなかった。

だが反面、俳優にはそれぞれ「適役」なり「はまり役」というものがあるように感じる。
トム・クルーズにとってのそれは、
『マグノリア』だと確信する。
1999年製作、189分という長時間映画。脚本、監督、俳優の演技、どれをとっても素晴らしい作品に仕上がっていると思う。監督はポール・トーマス・アンダーソン。

189分という長い時間をかけて、とある一日、たった一日だけを描いた映画である。一つのテレビ番組を取り巻く数家族、計10数人が織り成す群像劇だ。

(1)人気長寿チビッ子クイズ番組の司会者を長い間努めている中年男性(フィリップ・ベイカー・ホール)とドラッグに溺れるその娘(メローラ・ウォルターズ)との確執。
(2)ひょんなきっかけでその司会者の娘と知り合い恋に落ちる警官(ジョン・C・ライリー)。
(3)子供時代にその番組で子供チャンピオンになり、その名声を利用して職に就いた、今や中年となった男性だが、才能はクイズだけで、仕事では失敗の連続を繰り返し、ボスからクビを宣告され、一方では行きつけのバーのバーテンに恋をするゲイでもある彼(ウイリアム・H・メイシー)。
(4)現在のそのクイズ番組でちびっ子チャンピオンとなった子供と、完全に「ステージパパ」と化したその子の父親。その親子の確執。
(5)そのテレビ番組の制作者であり末期癌の男性(ジェーソン・ロバーズ)。若い頃、病気の妻と幼い息子を捨ててしまったことを悔い、死を目前にした今、その息子に一目会いたいと願い、男性の看護士(フィリップ・シーモア・ホフマン)に依頼する。結婚当時は財産目当てだったが、臨終の床にある夫に今ようやく愛を感じ、過去を悔いる妻(ジュリアン・ムーア)。

そして、その末期癌男性の息子がトム・クルーズ。幼いながらも病に伏せる母親の面倒を見、最期を看取った彼。彼は自分たちを捨てた父親を憎み続けながら大人になる。

大人になった彼が得た職業は「女性ナンパの伝道師」といったことろ。その道ではかなり有名な様子で、ホールを借りてナンパ・セミナーを行う。女性をモノにしたい男性で客席はぎっしりと溢れかえる。

彼がセミナーのステージに登場するシーンを見て、あ、これは、トム・クルーズのはまり役だと直感した。登場の際の音楽は、映画『2001年宇宙の旅』のあの有名なサントラ。そのサントラでジャジャーンと登場する大袈裟加減もいい。そしてスポットライトが少しずつ彼を照らし、ステージに登場した彼が会場に向けて開口一番に叫ぶセリフがなんと、「Respect the “c”, tame the “c”」。ご自身の「C」に両手を添えるようにしながらそのセリフを叫ぶのです(笑)(笑)(笑)。本当に、マジで笑いました。「””」で括った単語はおわかりになりますよね。

ステージの背後にある大きな垂れ幕には、『SEDUCE and DESTROY』が。「誘惑し、ねじ伏せろ」が訳(笑)。

笑える場面も含め、実際はとてもシリアスな気持ちで見る映画。

母と自分を捨てた父親、こうした体験は、捨てた側の性である「男性」に対し嫌悪を抱き、「女性」側に対する同情心、これが通常の心理だが、彼はその真逆とも言えるようなビジネスで成功を収めている。だが、彼の心の奥底に流れる父親への思慕の情、この複雑にねじれた深層心理とも言うべき彼の心情を描くに際しては、却ってこの真逆さが巧みなコントラストとなり、父親への強い愛を紡ぎ出す役目を果たす。

何十年ぶりの父との再会。意識朦朧の父に向き、恨み辛み、罵倒の限りの言葉を吐きつつ、だがそれが次第に揺らいでくる。何故なら彼は父親をずっと愛し続けてきたからだ。罵倒しながらその思いに気づく。そして、積年の願いであった父との再会の喜び、父への愛が嗚咽とともに噴き出してくる。ようやくの再会にもかかわらず、父と過ごす時間はわずか。嗚咽は、この皮肉な運命に対する憤懣の吐露でもあり、もっと早く再会すべきであったという後悔の念、自責の念の現れでもあっただろう。父を罵倒しながら、彼は自分をも罵っていたのだと思う。

この映画は、皆本当に素晴らしい演技で魅了してくれた。どこまでもドジな役を演じるウイリアム・H・メイシー、感情の起伏が激しい役のジュリアン・ムーアも見どころだ。

そして、心優しい看護士の役柄を見事に演じきったフィリップ・シーモア・ホフマンも最高である。主演男優賞オスカーを受賞した『カポーティ』を除けば、どちらかというと、いけ好かない生意気な高校生役、大人になった今でも少々毒舌で辛辣な皮肉屋といった役どころが多い彼。つまり、演技派だということなのだろうが、彼は徹頭徹尾、暖かく柔らかな心を持った看護士だった。

意外なはまり役は、メローラ・ウォルターズ。他のどの映画を見てもただ脇役、ちょい役でしかなく、あまり記憶に残らない彼女だが、この映画では光る演技を見せてくれた。精神的に少々不安定さを感じさせるちょっと危なげな役どころが巧い。ドラッグに溺れる彼女が警官から交際を申し込まれるのも、ヘンだが面白い。

戦争の本質は冒頭15分でGasp

HappyWinkingLaughブログのカテゴリに「映画」を登場させました。映画館にもほとんど行かず、DVDをレンタルするでもなく、もっぱら衛星放送の映画専門チャンネルを見るだけなので、無類の映画好きというほどではありませんが、それなりの愛好家であることは間違いありません。勝手気ままにピックアップした映画を紹介して行きたいと考えています。
*写真について:写真を掲載している個人サイトを多く見かけますし、映画の宣伝に寄与するのですから本当は私も載せたいところですが、著作権が何やら複雑に入り組んでいるのが映画らしく、上手い解決策を見つけるまでは映画サイトのリンクでやっていこうと思います(^^).。


記念すべき初登場は何故か戦争映画2本。ともに第二次世界大戦を描いた作品。
「スターリングラード」(監督:ジャン=ジャック・アノー)。戦争の舞台はソ連。

「プライベート・ライアン」(監督:スティーブン・スピルバーグ)。戦争の舞台はフランス。

戦争映画の銃撃シーンや爆撃シーンは当然のお約束。でも死にゆく兵士たちの「死に方(殺され方)」のパターンは様々。どのパターンを描くかによって、戦争の見せ方が違ってくる。制作側の意図によってそれは異なる。

戦争ものといっても映画である以上は娯楽。特にJournalistic な意見を述べるつもりもないけれど、戦争は悪であると考える一人としては、その悪の本質や実態が巧く表現されているかどうかが、戦争映画の善し悪しを計る目安になると考えている。

「悲惨な無駄死に」。これが私の計り方の一つ。両映画は共に、それを冒頭の15分程度で表していた。戦争は所詮国と国の争い。トップが命令し、下々の国民から死にゆく。国という怪物に翻弄される庶民、これが戦争の本質ではないのだろうか。

スターリングラード:劣勢が続く戦地に膨大な兵力を注ぎ込む。軍の司令部から見れば、兵士は家畜同然。それを象徴するかのように彼らは貨車に詰め込まれて到着。主人公ヴァシリ(ジュード・ロウ)が学のない羊飼いという設定もそれを印象づける。貨車が開いて外に放り出された途端、いきなり空からドイツ軍機の掃射を浴びる。打たれ倒れてバタバタと死にゆく兵士たち。残った兵士が渡船で戦地に向かう途中も空からの掃射。またバタバタと。兵力を失いつつ戦地に到着するが、まったなしで敵地に走らされる。銃は2人に1人だけ。1人が殺されたら銃を持って走る。逃げ戻ろうとすれば今度は、「Coward! (臆病者)」と罵られ味方に撃たれる。

この映画のもう一つの見所は、ヴァシリ(ジュード・ロウ)とターニャ(レイチェル・ワイズ)のラブシーン。長引く戦況の中、疲れ果てた兵士たちがイモのように並んで雑魚寝する所。仮眠を取るヴァシリの横にターニャが身を潜り込ませる。人間一人分幅でのメイクラブ。周囲を気にしつつのラブシーン。ターニャの大きな目、声を立てそうになるターニャの口を手で塞ぎながらのラブメイキング。「あれ、あり得ない」「でもどうやって?」「ちゃんと、ホントに、できてる?」などなど、友達の間では可能不可能をも含めた意見・異論が飛び交いました(笑)。百聞は一見に如かず。見ていない方は、是非ご覧下さい。

プライベート・ライアン:ドーバー海峡を渡り、オマハビーチ上陸をはかるアメリカ軍の兵士たち。上陸の途端、ドイツ軍の凄まじいまでの銃撃を浴びる。バッタバッタと倒れゆく兵士たち。傷を負った兵士を助けようと腕を掴むが、爆撃で下半身がない。叫びながら千切れた腕を探す兵士もいる。ビーチはどこまでも血の海。見事なまでに広がる赤い海が、夥しい死者数を感じさせる。近くで炸裂した爆音により耳を一時的にやられ、こもった音の中でうつろな表情をした主人公ミラー大尉(トム・ハンクス)がアップになるシーンもリアリティがあった。

この映画のラストシーンは、何度見ても違和感を感じる。戦地で救い出された「ライアン」が年老いた現在。救ってくれたミラー大尉の墓前に、妻、子供や孫?など大勢で向かう。墓に向かって歩くシーンに時間を割きすぎているように感じる。そして、墓前での涙、妻に語りかけるウェットな口調は何かわざとらしさ、取って付けたような感を拭えない。確かに「ライアン」の今はミラー大尉らの犠牲の上に成立している。毎年、隔年、3年ごと?、墓参りの頻度はわからないが、あれから50年以上の年月が流れている。「涙」を使った演出よりも、重々しさがありながらもさらっと手短に墓前のシーンを描いた方が、却ってミラー大尉に対する「ライアン」の感謝の気持ち、墓前に向かってミラーと語らうことが常となっている「ライアン」、を表現できたのではないか。観客を「上手く、長く」涙に誘うやり方はハリウッドの王道?