癒されたい人が向かう所と寺の関係HappyLaughWinking

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30年、40年前と比較してみると、この10数年?ぐらいの間に色々と目新しい「癒し」が登場した。香り、音楽、植物、色、ダンス、他にも色々ある様子だ。香りとマッサージのように、複数の素材を組み合わせたタイプもあり、多様化が見られる。施術する人は「セラピスト」や「ヒーラー」などと呼ばれている。

補完医療、代替医療の必要性が叫ばれている。上記の「癒し」もその一つと言えよう。辺りを見回すと、この世界を生業とする友人知人たちがいることに気づいた。親しい友人の中にもいる。私と同じ広告業界にいたその友人は、広告企画のスキルをフル活用し、補完医療の広報宣伝活動を行っている。また、アロマテラピー、オーラソーマを行う知人もいる。

これらの「癒し」が増えた理由を考えてみた。で、私の勝手な見解をひとつ。先の見えない時代、少子化、核家族化、他にも要素はあるだろうが、こうしたことにより、人は内向きになり、人と人との触れ合いが減り、コミュニケーション能力のない人までもが増えた。だが、反面、やはり人は人と接点がないと生きて行けない。心療内科に行くほどではない。だが、日常生活の中で知らず知らずに抱えてしまうストレスはある。友達とお茶を飲んで鬱憤を晴らすのもよしだが、”ため口の仲”では満足できない何かがある。とにかく一方的な「癒し」が欲しいのだ。嬢王様扱いで、敬語で対応してもらい、褒めそやさしてもらいたい、時にはお喋りはなしでいい気持ちにさせて欲しい。

という人たちが増えているように思えるのだ。こうした人たちにこれらの「癒し」術は完璧だ。私もリフレクソロジーやアロママッサージでリラクゼーションを満喫したいと思うことがある。

そして次にこんな新聞記事を読んだ。どこかの寺の住職が「あなたのお話お聞きします」という張り紙を寺の門に張り出したところ、次々と人が訪れているという。もちろん無料。

私の両親の世代は、説法を聞くためよく寺に出かけていた。幼い頃、私は何度も連れられて行ったことがある。仏教の話が理解できず退屈で仕方が無く、寺行きが苦痛の一つであったことを覚えている。また、何か問題や迷い事があれば、住職に話を聞いてもらうのだ、ということを明治生まれの祖父母が話していた。

「駆け込み寺」と言うぐらいに、寺は庶民の慰め、「癒し」の場所であったはずだ。だから、この記事を読んでも、今さら、という気がしてならない。デカデカと新聞記事になるぐらいなのだから、寺が本来的な役割を果たしていないということなのだろう。

先の「癒し」と「寺の無料人生相談」。何か頭の中で落としどころが見つかったような気がした。両者を因果関係に仕立てるのはいささか早計ではある。先の「癒し」はこの時代の流行りなのだと言ってしまえばそれまでだし、寺の低迷故にこれらの「癒し」が隆盛を極めているなどという見解はかなりの独断ではある。だが、もしも寺が昔からの「務め」を全うし、そのことに「精進」を続けていたなら、先の「癒し」の繁栄度合いに多少影響はあったかもしれない。

先の「癒し」は害のないものだ。だが、得体の知れない「占い」や「宗教」が幅を利かせる世の中になっている事実。ここに寺の現状が、少々であっても影響を与えているとは言えないだろうか。寺が地域の人々の心を見なくなったことが、何かこうした危機を示唆していると考えるのは、これまた早計だろうか。占いに人生を左右され、占いがないと行動できない人。宗教に全財産を貢ぎ、心も全て捧げ、自らの中心軸を見失った人。この何十年かの間、新聞その他で垣間みる出来事だ。

寺に代わる存在で言うと、先の「癒し」よりももっと寺に近いポジションは、臨床心理士や産業カウンセラーなどの心理カウンセラーだろう。私もこの資格を持つが、心理学の手法を用いるということを除けば、「対話」によって人を治していく点で、心理カウンセラーと寺は同じだ。

数年前、恩師の話を聞く機会があった。恩師は寺の未来を憂いでいた。神社は挙式その他の慶事でどうにか市民の役に立っている。だが、一方の寺の存続は危ういと。詳細を聞く暇がなかったが、最近ではセレモニーホールなど、「葬式パック」の業者が現れ、これまで寺が担ってきた弔事による利益が損なわれているのかもしれないと推測した。

「癒し」、色々な方法があってもよし、多様化、素晴らしいではないか、と思う。反面、古代から受け継がれてきた、寺という「癒しの場」は「仏閣」という単なる建物に過ぎなくなっていく懸念を感じる。檀家の数も減る一方だという。寺の親戚がいるという友達は、その寺が他の親戚にお金(お布施、寄付?)の無心をしていると言っていた。

私は無信教だが、仏教は押しつけの無い宗教、世界的にも比較的争いの無い宗教であり、素晴らしいことだと思っている。いつまでも人々の心の支えとなる場であって欲しい。心理カウンセラーも思い悩むことがある。是非そうしたときの受け皿になって欲しいものだ。

本末転倒とはこのことSadGaspEmbarrassed

最近、第三者に身内のことを話す際の呼び方で違和感を感じることがある。自分の奥さんのことを「よし子さん」「真弓さん」というように「さん」付けするご主人。時には「奥さん」と呼ぶ人も。また、奥さんを「嫁」と呼ぶご主人。姑が嫁と呼ぶのはわかるが。また、奥さんがご主人を「ダンナさん」と呼ぶ例にも出くわす。

第三者に話す時、身内は呼び捨て。あるいは「妻」とか「女房」、「亭主」や「主人」、と思ってきたが。へりくだり、謙譲、序列を付けた呼び方、これが日本式では? まして、「奥さん」と呼ぶ対象は、自分の側ではなく、第三者の妻をそう呼ぶのではなかったか?

こういう例はどうか。坂田という家があり、家政婦さんを雇っているとしよう。玄関先で坂田家の奥さん、家政婦さん、銀行マンが坂田家のご主人に用があってきている設定。ご主人は出かけている。奥さんが家政婦さんに対し「旦那様はどこかしら?」と、尋ねるのはあり。でも、銀行マンに対しては「坂田は出かけているようです」と言わなければならない。序列があるからこそ、こういう例も成り立つ、のだと”信じて”きた。この奥さんの「様」から「呼び捨て」の変わり身、これは会社では常識のはず。社内で「田中さん」と呼んでも、社外の人には「田中は」となる。

時代の流れとともに言葉の使い方、使われ方も違ってくる。言語学者でもないため、本当のところはわからないが、そういう巷の「流行」に今ひとつ馴染めず、違和感を感じ、時には「それ、間違ってるわよ」と言いたくなるのは、やはり歳なのか、とも。

話はかなり変わるが(変わっているようでいて実は関連があるのだが)、もうすぐ新卒就職の4月。だが大学生の就職難は依然として変わらない。苦肉の策なのかどうか、「卒業後の3年間は企業側に門戸を開くよう求める」とした日本学術会議、「新卒の肩書きを与えるための希望留年制度」を設ける大学側。

は??? 何をしているのだろうと言いたい。
以前このブログでも伝えたように、日本企業は「新卒好き」で、学生の「就活」は今や3年生からが当たり前。オマケでもらったプラス1年の就活組、5年生”新卒”。こんな小手先のごまかしのような「新卒」を作っても、企業は所詮、通常の4年で就職するこちらの”新卒”を選んでしまうのではないだろうか。或いは、5年新卒に対しある種の負け組的偏見をもって見てしまうのではないだろうか。彼らが不利にならないとどうして言い切れるのか。

そもそも、3年生からスタートの就活で学業がおろそかになっているような学生を4年卒業で会社に入れる方がリスキーと言える。学生の本分は学業。この就職難で、教授陣もお情け的に単位を上げているということはないだろうか。3万字や5万字もの卒論はきちんとした調査やデータの精査があってこそ書けるもの。まさかこちらもお情けで、か? 学業は学業のためだけにあらず。学業を通じて「なりたい自分」を探って行く。このために大学の勉強がある。高校までの勉強は、定説とその因果関係を「覚える」ことが主。一方の大学は、その定説と因果関係に「何故」という「独自の視点」を投じ、そこを掘り下げて、その「意義」をつかみ出す営みを行う学問の府だ。常に「問い」を学ぶ場所なのである。ここでしっかりと「問い」を学べば、曲がりなりにもいっぱしの社会人になれる。そのように科目は組み立てられているのだから。

だが、3年就活の結果、「使えない」新社会人を続々と排出しているのでは。企業側は第一に「コミュニケーション能力」を重要視しているという。最近ではキャリアコンサルタントに面接の訓練をしてもらっている学生も増えている。エントリーシートの書き方も含め、自分をどうアピールするかを教え込むのである。訓練は悪い事ではない。自分自身の新たな発見もある。だが、プロに教え込まれた戦略が面接という本番用の「芝居」になってしまうことはないだろうか。教え込まれたことが本当に「実になっているか」はわからない。何せ、まだ社会は未体験ゾーンなのだから。

この際、卒業後の1〜2年は就職せず、社会勉強タイムとしたらどうなのか。ボランティア活動などを通じて社会を知り、自分をも見つめる。このぐらいの期間があれば「進路」も見えてくるのではないか。その上で就活。その方が何倍も「使える」社会人になるはず。そうすれば4年間はしっかりと学業に専念でき、真に学問も身に付く。卒業後の社会勉強タイムにも身に付いた学問が活かされる。こちらの方がいい事尽くめではないか。

少々乱暴な見解だが、先の「さん」付け若者を、「使えない」社会人とイコール化させたくなる私がいる。。。

良いのか悪いのかGaspSadHappy

「大西洋クロマグロ禁輸」が否決された。欧州連合(EU)とモナコ提案が否定され、日本他の国々の”願い”が叶った格好だ。難航の予想、日本側敗北予想の方が色濃かったはず。だが勝利の理由は「産業問題」と捉えた国々が多数派だったということらしい。敗北側はクロマグロの数を保護するという「環境問題」に律した立場。つまり、生活がかかっている国々の勝利ということだ。また、禁輸の側にいたはずのEUにも「産業問題」を抱える国々があり、EU自体が分裂していた。このタイミングで採決すれば「勝てる」と、その分裂を日本に「密告」した国があったという。

また、発展途上国の不満も蓄積していた。環境問題は常に先進国側から発信され、発展途上国の資源利用を縛る。途上国側から見ると、先進国はこれまでさんざん天然資源を利用してきたくせに、環境問題を大上段に掲げて途上国の経済成長を阻止するのか、という苛立がある。そして、これまでの環境問題には「援助」という「アメ」が付いてきたが、今回は「ムチ」のみ。

他にもいくつか勝利の理由はあった。だが日本の根回しも際立ったように感じる。あの「密告」を受けた日本は、”どこか”が採決動議を提案した際には賛成をと、各国にお願い行脚を行った。バッシングの矢面に立たされている日本が採決動議を出すのはまずい。そこでどこでもいいが、”どこか”の国ということだ。動議はリビアから出された。

クロマグロが枯渇するのはまずいことだ。だが途上国側はその枯渇寸前というデータすら疑っている。こうした状況でモナコやEUが「環境問題」としてスタートさせた、時期尚早の議論だったのだろうか。

大海原の大自然だけでなく、陸地でも「環境問題」が発生している。干ばつケニアの国立公園で、獲物に困窮したライオンが家畜を襲っているという。観光資源の目玉であるライオンを守るため、国側は窮余の策としてシマウマやヌー7千頭を、「生きたエサ」として移動させた。ブランコやジャングルジムのある町の公園とは規模が違い、巨大な面積の中での「自然生態系」ということはわかるが、結局は「餌付け」である。想像を絶する大きな規模の「動物園」とも言えないだろうか。だが、何故か悲しい気持ちになる。「自然」とはどこからどこまでであり、どこからが「不自然」なり「人工的な人間世界」になるのだろう。

種の絶滅から動植物を救うという観点で取り組まれる「環境保護活動」。多種多様を是とする上では「人間の介在」は欠かせないということのようだ。一方では、人間が、その地域が、ひいてはその国が「生活」していくために、人間の手によって、先のシマウマのように人工的に動物の数が増減させられる。干ばつの問題だけでなく、ケニアの開発が進んだ結果、ライオンが保護区や国立公園の外に「獲物」を求めざるを得ないという状況もあるという。また、開発により人口が増え、住処を失った野生動物が保護区に追い込まれてきているという事実もある。

市場経済の波に巻き込まれた人間は、自分たちの「生活向上」のために開墾を続ける。それによって絶滅危惧種指定となる動植物が発生するかもしれない。絶滅危惧種指定は、もちろん先進国側から発信される。「環境問題」として提示され、生活がかかっている途上国はそれに反対する。あるいは同意する代わりに物質的援助を求めるだろう。

全ての動植物がその種や数を保持し、しかも人間が経済向上や生活利益を得る営みを継続できる世の中。果たしてそんな理想郷は存在するのか。

「障碍」使用のすゝめHappyAngrySad

且つては漢字表記だったものがひらがな表記に切り替わっている。そんな文字を新聞記事で見かけるようになった。最近の例でいうと、「障がい」。元は「障害」。「害」の意味があまりにもイメージが悪すぎて、障害者と表記するのは取りやめにしたのだろうか。

確かに「害」は悪い意味しかない。だが、私の中では障害は「障碍」である。心理学の教授が「碍」を使用していた。川の流れの途中に岩があり、それが流れを妨げているのだと。障碍者の人たちはたとえていばその岩を持っているのであり、岩を持たない川とは違った流れになるだけであると。岩のある川を想像してみればわかるように、とても美しい表情を醸し出す川になっていることは間違いない。つまり、個性なのであり、そこに「害」はないのだと。素晴らしい考え方だと感心したものである。

ネット検索をしてみると、障害の害をひらがな表記にした自治体は結構あるようだ。朝日新聞だけではない様子である。だが、その朝日新聞の夕刊の特集に漢字をテーマにしたシリーズがあって、『「碍」の字で社会は変わる』という記事が載っていた。記事によると、「障害」が使われた背景には国の漢字政策があったようだ。敗戦後、膨大な漢字に手を取られていては国の発展は望めないということで、使用を制限した当用漢字表(1850字)ができ、1981年にはその制限を緩めた常用漢字表(1945字)が登場したが、この間にも「害」と「碍」の吟味はなされないままで「障害者」がずっと使用されてきたそうだ。つまり、戦後の発展との引き換えに犠牲となったということだろうか。

だが、吟味をやめ、いきなり削除、ひらがなへ、というのもなんだかいただけない話である。この特集記事に賛同するのなら、よその真似をするのではなく、朝日新聞は率先して「障碍者」を使えばいいのにと感じる。politically correct にしようというものなのか、言葉狩りに屈したのか、残念な気がする。

精神分裂病は統合失調症へ、痴呆症は認知症へ、切り替わった。同様に障害者も障碍者にはできないのだろうか。重箱の隅をつつくなら、「障」という字も「害」に負けず劣らずの悪い意味を持つ。辞書で調べても、邪魔になる、邪魔をする、ふさぐ、妨げをする、など。そうなるといずれは「しょうがい」になるのだろうか。

漢字の文化にもうちょっと誇りを持ち、誤りを正しながらも相応しいものを見つけて行くことが大切な歩みだと思うのは私だけだろうか。以前に読んだ、ある著名な(英語圏の)言語学者のコメントを思い出す。「デモクラシー(democracy)に民主主義という漢字を充当した日本は素晴らしい漢字文化を持っている。英語ではこの一つの単語に意味を持たせなければならないが、民主主義は複数の漢字でその意味を表そうとする。”民”が”主”であることを”主義”とする、これがデモクラシーなのだと改めて気づかされるし、そうあらねばならないと強く感じさせてくれる」

先の教授のように、川の流れにある岩、つまり「碍」のある美しい表情を表す川、これではいけないのだろうか。

違いとはEmbarrassedSadFoot in Mouth

穢多非人。

日本ではこの言葉をどの程度の人が知り、どの程度の知識水準で知り、どの程度の理解をしているのだろうか。

「部落民」「被差別部落」「同和」など、いくつかの呼び方はあるが、これらはどれも明治政府の解放令後に”出没”してきた”政治・行政的”名称だと言え、それ以前は冒頭のような蔑称がまかり通っていた。

今や、露骨に差別をする人はいないと思う。だがそれは”彼ら”がどこにいるか知らないからであり、彼らはいちいち”名乗らない”から、差別以前の状況にあるとも言えないだろうか。

何年か前、「部落民差別はやめよう」という主旨のチラシを町役場で見かけたことがある。交通ルールを守ろう、などと同様の、よくある行政のお決まりチラシなのかもしれないが、配布されるということは、やはり”彼ら”はいるのだろう。

数日前から始まった朝日新聞夕刊の連載記事は、『差別を越えて』。被差別部落出身の人たちの人脈記を綴っている。

記事の初回は、1971年、赤い鳥が歌っていた『竹田の子守唄』。この元唄は、京都・大阪の被差別部落に伝わる民謡なのだそうだ。子守奉公に出る幼い少女たちが守り子の辛さを嘆きながらも自らを励ます労働歌だという。記事の写真には、元唄を歌う被差別部落出身の70代の女性たち。

もう40年も前の歌なのだから、と思っていると、2回目の記事で取り上げられた被差別部落出身者は若い人たちだ。27歳の女性と31歳の男性。大学時代、差別されるかもしれないという怖さで出自を明かすことはできず、だが反面、言えない辛さを理解して欲しいという思いも強くあり、その葛藤に悩まされていたという。

「差別」は大昔のことではないのである。新聞はこのように、今も残る悪しき事実を特集してくれるが、学校ではどのように教えているのだろうか。

こうした差別に関する日本の教育方法の特徴として、”当たり障りのない教育法”があるように思えてならない。あくまでも簡単な事実なり史実、そして最後に「差別はいけません」というようなやり方だ。私自身、被差別部落のことは学校で何かしら学んだような気がする。だが、あまりにもおぼろげな記憶しかないのは、私がちゃらんぽらんな生徒であったことを差し引いても、何かしらその教育法に起因するものを感じる。被差別部落をある程度きちんと知るきっかけとなったのは大人になってから。住井すゑの『橋のない川』、島崎藤村の『破戒』を読んでからだ。また、 人権問題を取り扱っているジャーナリスト仲間がおり、彼らの熱弁からの方がもっと多く、且つ、問題の本質を学べた気がする。

先の『竹田の子守唄』は、被差別部落である竹田地区にまつわる楽曲だということで、日本の放送局はどこも放送したがらず、それは1990年代まで続いたそうだ。憎むべき差別は行政のチラシや学校での学びで「お達し」として通知されているはずだから、それ以上の”面倒”はやめにしてほしい、というやり方とは言えないだろうか。確かに、差別の対象になっている事柄を取り上げることが差別の助長を招く結果となる場合もある。繊細な問題だからこそ、教科書行政もマスコミも二の足を踏んだのだろうし、声高に批難するつもりはない。だが、こうした風潮を続けていると、”いる”はずの”彼ら”の姿が見えてこないままになる。それに何よりも、被差別部落の人々と”一般の人々”との違いは何ら見いだせないのが事実だ。この明白なる事実があるにも関わらず何故か存在する差別。だからこそ、差別という非人間的な行為が何故生まれたのかをきちんと教えることが大切だと感じる。それにより、差別する側の愚かしさが見えてくるはずだ。

特集に登場している人たちは、今もその犠牲者である。今も尚潜伏している人々の罪、その罪の刃で傷ついた心が今も尚癒えない人々。21世紀だというのに、あまりにも時代錯誤な現実が横たわる。 懺悔というと大袈裟に過ぎるかもしれないが、 朝日新聞の特集は、当たり障りの”ある”やり方を用いて、この事実を風化させまいとしたのではないだろうか。

前出の70代の女性は、差別は昔と同じでまだ変わっていないと言う。27歳の女性の場合、大学時代に彼女にとって身近な部落に関する講義を受講したが、その際行われた受講生アンケート結果に愕然としたそうだ。なんと半数の受講生が「生まれてくる子が差別されるかもしれないから部落の人とは結婚しないという考え方に共感できる」という回答をした。彼女はそれがきっかけで部落出身ということを伏せるようになったという。31歳の男性は、大学時代に部落解放研究会に所属していたものの、”外”の世界ではそれを伏せていた。サーフィン仲間が偏見に満ちた部落差別の話をしても常に沈黙を守り続けた。

その31歳の男性が言ったもう一つの言葉が、先の私のもやもやを言い表してくれた。それは、今では露骨な差別は少なくなったが、部落出身者がそこに”いない”と思って差別を語る場合があるということだ。”一般の人々”は、ついつい、悪気はないままに、部落差別発言をしているのだ。差別を作った馬鹿げた”一般”の感覚、愚かしい差別の歴史、それらが心身に宿るような教育を受けていないから、見た目では判別できない彼らの面前で”悪気のない”差別発言をしてしまうのであろう。一方、堂々と出自を告白したい気持ちと知られる恐怖の狭間で思い悩む彼らは、愚かしい”一般の人々”の言葉を、苦々しいながらもぐっと堪えて飲み込むのである。

差別の問題は、お茶を濁したような教育方法では通らない。またテレビも、”避ける”だけでは何ら解決にはならない。

実はこの問題は、在日韓国朝鮮人の問題とも似ている。見た目ではわからない彼らも同様に、本名を伏せ、通称の日本名を名乗る。心が打ち解けてきたところでようやく告白する。”在日”であることに何ら問題はないのに、申し訳なさそうに話す彼ら。そんなふうにしてしまった、させているのは誰か。20年近く前、在日韓国人と交際していた友達がいた。結婚したいと考えていたが、親に反対されて断念したと聞いた。知人のアメリカ人男性はある女性と交際していた。結婚を申し込まれた彼女は泣きながら在日韓国人であることを告白し、だから結婚は諦めると再びすすり泣いた。彼には彼女が何故泣くのかがわからず、何故結婚を諦めるのかも理解できずにいた。彼女が”在日”の現状を語る。あまりにも馬鹿げた日本の状況に呆れ返りながらも、再度彼女に結婚を申し込んだ。

日本には他にも”民族差別”が存在したし、今も存在する。どれも本質は同じだと思う。アメリカやヨーロッパでも同様に人種差別や民族差別は存在する。だが、どちらがどれだけ”悪い”かの極悪犯探しをするつもりはないし、比較するつもりもない。ただ、日本にある現実を憂うのみである。

ただひとつ、救われた気持ちになったのは、若い2人が最後に締めくくった言葉だ。「部落出身を明かす事は一種の賭けではある。でもエイッと踏み出さないと部落の事をわかってもらえない」「講演に歩くのも、部落出身を見える存在にしたいから」。一歩踏み出す事で見えてくる世界や景色が違ってくる。若い人たちに期待したいと心から思った。

女性活用発展途上国SadFoot in MouthEmbarrassed

「オレゴンから愛やなく、東京から愛にして欲しいもんやわ」。民放を見ていた頃、こんな芸能ニュースが流れていたことを思い出した。大竹しのぶとの離婚後に、芸能リポーターか誰かにコメントを伝えている明石家さんまの姿だった。聞き漏らした言葉はあるかもしれないが、ほぼこんな感じだったと思う。つまり、離婚に至った理由の一つとして、このセリフが出てきたわけだ。『オレゴンから愛』というドラマ撮影のためにアメリカに長期滞在する大竹しのぶ。当時はまだ幼児だったIMALU。大竹しのぶがアメリカにいる間に熱を出したIMALUのことも伝え、その間自分がどれだけ仕事と子育ての両立が大変だったか、確かそんな”意味合い”のことを喋っていた。”母親”ともあろう者が幼子を”夫”に預けて家を長期間留守にするとは、主婦としてなにごとか。これが明石家さんまの本音だったのだろう。

先の文言を男女逆に考えたらどうだろう。”父親”ともあろう者が幼子を”妻”に預けて家を長期間留守にするとは、主夫としてなにごとか。明石家さんまがロケでアメリカ。忙しい俳優業を抱えながらも大竹しのぶは家事との両立を計る。だがこれが批難されることはあり得ない。聴衆が納得するのは明石家さんまの弁なのだ。これは何故か理屈抜きだったのである。男女平等の感覚が”比較的”浸透している芸能界であっても、それを支えるのは聴衆。”男なみ”に稼ぐ女優であっても、子育てや家事との両立をしっかりと行う。聴衆はその”主婦像”に賛同し感動するが、子育てそっちのけは疎まれる存在だった。

二人が離婚したのは1992年。18年も前のことの”はず”だったが、新聞の見出しに『「日本は57位」乏しい実感』とある。国連機関が公表する女性の活躍度指標「ジェンダー・エンパワーメント指数(GEM)」で、2009年度の日本は109カ国中の57位とある。国会議員、管理職、専門・技術職の女性比率、男女の賃金格差などをもとに指数をはじき出したランキングがこれ。他の先進国が上位に位置していることは言うまでもない。ちなみに、日本のすぐ上、56位はキルギス、55位はベネズエラ、54位はホンジュラス。

働きたいが子供を預ける場所がないという女性の悲鳴。一方、この不景気で、夫の収入だけでは不足であり働かざるを得ないが子供を預ける場所がないという女性の悲鳴もある。行政の場面でも女性の首長はほとんど無いに等しく、政治の場面ではニュースに出る議員のほとんどは男性。テレビ界でも(たぶん)まだ”女子アナ”のままだろう。

実際のところ今もまだ”家事の中心”は女性が担い手というケースの方が多く、それを求める女性も少なくはないというのが現実ではないだろうか。だから決して奇麗ごとを言うつもりはない。だが、働きたいと考える女性が普通に対等に働ける社会基盤が整っていれば、もうちょっと良い方向に切り替わるのではないかと思う。

若者が大志を抱けるかEmbarrassedFoot in Mouth

大学生の就職活動、いわゆる「就活」は今や3年生の時点でスタートしている。そうした中、つい先日、キャノンマーケティングジャパンが「採用活動を遅らせます」という宣言をした。この宣言の背景には、業績悪化と早過ぎる就活への問題提起、この2つがあり、後者に関し同社は、「学生の皆さんから学ぶ機会を奪っているのではないか」と伝えている。

そもそも3年生からの就活とはなんであろうか。昔は4年生になってからだった。学業の妨げにならないように設定(青田買い抑制の意味もあったかと)された就職協定が廃止され、就職活動の時期が早まったとのこと。3年生就活肯定派の中には、4年は卒論で忙しく、3年就活はありがたいという者もいる。だが一方では、3年で内定をもらった学生が、1年半後の新卒時にその企業から内定を取り消されたケースもあった。不況による理由だが、確かにこの経済不況下で考えると、内定した企業が1年半後に倒産などということもあり得る時代だ。また、3年生時にあまりにも就活に勤しみ、4年生時にはただ遊んでいたからなのかどうか、まともに”日本語も使えない”社会人となり、就職先の企業が大学側にクレームを申し渡す例も耳にした。

就活が早まっている反面、通年採用の企業も増えている状況も耳にする。即戦力が欲しい企業としては「新卒」にこだわることはない。だが、この場合はそれなりの”スキル”があってこそなのかもしれない。

総じて見ると、日本における4月の新卒一斉採用体質はまだまだ健在だといえる。”新卒神話”が作り出した弊害は「フリーター」というネガティブな言葉を生み出したように思う。フリーター歴のある多くの若者は未だに正規社員登用への道が開かれていないと聞く。たまたま就職氷河期に新卒となった運の悪い若者たち。だが就職氷河期にも「閑」があった。それは団塊世代の一斉定年退職時である。だがその後すぐに「リーマンショック」により氷河期が再燃した。ラッキーにもこの「閑」の時期に就職できた若者と、先のフリーターたちには何ら”差”はない。あるのは「運」だけだった気がする。精神科医の香山リカ氏は「貧乏くじ世代」と呼んでいる。

新卒を重視し、フリーターを避ける企業体質は、もう一つの弊害を生み出している。それは、新卒時点でまだ就職先が見つからない者に対し、大学側が1年間の「学籍」を与えるということである。つまり、大学生活5年目で就職活動を行い、翌年4月を”新卒”とすることである。5年目の学籍を得られなかった者は「就職浪人」となる。企業はこの就職浪人を敬遠する傾向がある。5年目の学籍を得て就活する者、5年目の学籍がないままに就活する者、両者に何の違いがあるというのだろう。先の「貧乏くじ世代」、「就職氷河期の”閑”の者」、この両者に差がないということと同じではないだろうか。

企業が「人を見る」よりも「新卒」を見続けている限り、こうした弊害は続く。いっその事、卒業後の1〜2年は社会を見て学ぶ猶予期間にしたらどうなのだろうか。ボランティア活動に勤しむもよし、金銭の余裕があれば世界を旅するもよし、また複数の企業でアルバイトをするもよしだと。「大学生超・社会人未満」というようなモラトリアム期間の提案である。自発的ではなく、必然的にこの期間に置かれているのが先のフリーターたちであることはなんとも皮肉であるが。

”英国病”のニッポンSadFoot in Mouth

初登場のカテゴリ、「日本のゆくえ」。昨年亡くなったジャーナリスト、筑紫哲也氏の著書『この「くに」のゆくえ』を拝借した。好きなジャーナリストの一人であった筑紫氏。講演を拝聴したこともある。朝日新聞記者であった同氏がジャーナリスト人生の後半に選んだのはテレビ。「活字ジャーナリズム」的手法を用いて映像勝負のテレビ界に挑戦し、その可能性を試していた孤高の人。

先の著書名のように、筑紫氏は日本のゆくえをとても案じていた一人である。私もこの「くに」のゆくえが気になる一人である。ジャーナリストとしてというよりも、今回は、保身的な意味合いも込めて気になることを述べたい。

総論としての「日本のゆくえ」は、各論としては「日本の経済」、「日本の政治」、「日本の若者」である。

現在の日本は、かつての「英国病」のような様相を呈している気がする。英国病スタートのきっかけとなった1960年代、そして70年代後半から80年代が最も深刻だったと学んだように記憶している。暗く陰鬱な経済状況は、曇り空の多い英国と重ね合わせて表現されることもしばしばだった。

「経済不況」と言っても、当時の英国と現在の日本では取り巻く環境も異なる。経済状況とは、多くの要素が絡み合う事で起こるその結果に過ぎない。その要素は歯車のようなもの。経済状況の牽引役である歯車は決して1つや2つではない。おびただしい数の歯車が経済を左右する。かつて恩師が、経済学の理論ほどすぐに錆び付く理論はないと言ったことがある。確かにそうだ。世の中は動いている。政治や他国、ヒト、モノ、カネ、代表的な歯車は少ないが、それらの下にはネズミ講のように数えきれない歯車がぶら下がっている。そしてそれらは膨大であるだけでなく、動き、変化し、増減する。その複雑な絡みの順列組み合わせをどう一つの理論にしようというのか。だから、経済学者たちが互いの理論に異議を唱える場面を見ると、子供同士の喧嘩のようであると呆れ返る反面、それぞれに「一理あり」と感じてしまう所以なのだろう。

日本もかつての英国のように暗く長いトンネルに入ってしまったのだろうか。確かに東京も今ひとつ活気がないように感じられる。人々の背中もなんとなく丸まり、地面を見て歩いている感じがある。新聞を見ると、中国がアメリカを抜いて新車販売世界一に躍り出たとある。GDP(国内総生産)でも2位の日本を追い抜く勢い。ある中国大手企業の社長は「小売業の技は日本が師」だと、追い討ちをかけるような余裕も見せる。英国病の時代、日本は逆に経済進展の真っ只中だった。現在の日本が中国を見る感覚、かつての英国が日本を見る感覚、これらには何か共通のものがあるのだろうか。

一方の政治はというと、「マネー問題」で野党が与党を吊るし上げる、という論法はいまだに呆れ返るほどに”健在”である。人々が清廉潔白な政治家を期待しているとは思えない。もちろんそれが理想であったとしても、政治家に求めるのは、とにかくこの日本経済の立て直しであろう。マネー問題追求の茶番劇は見飽きている市民感情に気づかず、来る日も来る日も”会見”し続ける日本の政治家たち。日本の未来の危うさは、こうした政治家たちの責任でもある。

暗く長いトンネルを抜け出す手がかりは、簡単に言ってしまえば老若男女を問わず「個々の努力」だろう。だが、今後10年、20年先の日本を考えると、将来は日本を率いていく”はず”の、現在の若者たち、彼ら、彼女らが手がかりなのだ。私的な利害で言うならば、私が年老いた時、楽しい老後を迎えているだろうか。日本の老人福祉は申し分のない状況になっているだろうか。

老後を考えると、現在の若者たちがカギになる。だが、「失われた10年」「平成の大不況」、これらをまともに浴びてしまった若者たち。それだけが原因ではないのだろうが、「草食系男子」という言葉まで出た。ある男性に言わせると、「草食系女子」も増大しているのだとか。解釈の仕方は色々あるだろうが、一人暮らしはお金がかかるからと親元から離れずパラサイトし、結婚して家族を養うことなど無理だから彼氏や彼女を積極的につくることをしない、人と飲んだり話したりということに「利益」を感じないからなるべく家に居る、などなど。「婚活」という言葉に現れるほどに結婚願望が強い若者がいる反面、こうした「人との触れ合い」を避けるようにしている若者もいるということだろうか。両者の比率はよくわからない。また、ネガティブに捉えた草食系の若者はあくまでも若者たちの中のほんの一部であり、多数派はそうではないのだと願いたいし信じたい。