癒されたい人が向かう所と寺の関係HappyLaughWinking

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30年、40年前と比較してみると、この10数年?ぐらいの間に色々と目新しい「癒し」が登場した。香り、音楽、植物、色、ダンス、他にも色々ある様子だ。香りとマッサージのように、複数の素材を組み合わせたタイプもあり、多様化が見られる。施術する人は「セラピスト」や「ヒーラー」などと呼ばれている。

補完医療、代替医療の必要性が叫ばれている。上記の「癒し」もその一つと言えよう。辺りを見回すと、この世界を生業とする友人知人たちがいることに気づいた。親しい友人の中にもいる。私と同じ広告業界にいたその友人は、広告企画のスキルをフル活用し、補完医療の広報宣伝活動を行っている。また、アロマテラピー、オーラソーマを行う知人もいる。

これらの「癒し」が増えた理由を考えてみた。で、私の勝手な見解をひとつ。先の見えない時代、少子化、核家族化、他にも要素はあるだろうが、こうしたことにより、人は内向きになり、人と人との触れ合いが減り、コミュニケーション能力のない人までもが増えた。だが、反面、やはり人は人と接点がないと生きて行けない。心療内科に行くほどではない。だが、日常生活の中で知らず知らずに抱えてしまうストレスはある。友達とお茶を飲んで鬱憤を晴らすのもよしだが、”ため口の仲”では満足できない何かがある。とにかく一方的な「癒し」が欲しいのだ。嬢王様扱いで、敬語で対応してもらい、褒めそやさしてもらいたい、時にはお喋りはなしでいい気持ちにさせて欲しい。

という人たちが増えているように思えるのだ。こうした人たちにこれらの「癒し」術は完璧だ。私もリフレクソロジーやアロママッサージでリラクゼーションを満喫したいと思うことがある。

そして次にこんな新聞記事を読んだ。どこかの寺の住職が「あなたのお話お聞きします」という張り紙を寺の門に張り出したところ、次々と人が訪れているという。もちろん無料。

私の両親の世代は、説法を聞くためよく寺に出かけていた。幼い頃、私は何度も連れられて行ったことがある。仏教の話が理解できず退屈で仕方が無く、寺行きが苦痛の一つであったことを覚えている。また、何か問題や迷い事があれば、住職に話を聞いてもらうのだ、ということを明治生まれの祖父母が話していた。

「駆け込み寺」と言うぐらいに、寺は庶民の慰め、「癒し」の場所であったはずだ。だから、この記事を読んでも、今さら、という気がしてならない。デカデカと新聞記事になるぐらいなのだから、寺が本来的な役割を果たしていないということなのだろう。

先の「癒し」と「寺の無料人生相談」。何か頭の中で落としどころが見つかったような気がした。両者を因果関係に仕立てるのはいささか早計ではある。先の「癒し」はこの時代の流行りなのだと言ってしまえばそれまでだし、寺の低迷故にこれらの「癒し」が隆盛を極めているなどという見解はかなりの独断ではある。だが、もしも寺が昔からの「務め」を全うし、そのことに「精進」を続けていたなら、先の「癒し」の繁栄度合いに多少影響はあったかもしれない。

先の「癒し」は害のないものだ。だが、得体の知れない「占い」や「宗教」が幅を利かせる世の中になっている事実。ここに寺の現状が、少々であっても影響を与えているとは言えないだろうか。寺が地域の人々の心を見なくなったことが、何かこうした危機を示唆していると考えるのは、これまた早計だろうか。占いに人生を左右され、占いがないと行動できない人。宗教に全財産を貢ぎ、心も全て捧げ、自らの中心軸を見失った人。この何十年かの間、新聞その他で垣間みる出来事だ。

寺に代わる存在で言うと、先の「癒し」よりももっと寺に近いポジションは、臨床心理士や産業カウンセラーなどの心理カウンセラーだろう。私もこの資格を持つが、心理学の手法を用いるということを除けば、「対話」によって人を治していく点で、心理カウンセラーと寺は同じだ。

数年前、恩師の話を聞く機会があった。恩師は寺の未来を憂いでいた。神社は挙式その他の慶事でどうにか市民の役に立っている。だが、一方の寺の存続は危ういと。詳細を聞く暇がなかったが、最近ではセレモニーホールなど、「葬式パック」の業者が現れ、これまで寺が担ってきた弔事による利益が損なわれているのかもしれないと推測した。

「癒し」、色々な方法があってもよし、多様化、素晴らしいではないか、と思う。反面、古代から受け継がれてきた、寺という「癒しの場」は「仏閣」という単なる建物に過ぎなくなっていく懸念を感じる。檀家の数も減る一方だという。寺の親戚がいるという友達は、その寺が他の親戚にお金(お布施、寄付?)の無心をしていると言っていた。

私は無信教だが、仏教は押しつけの無い宗教、世界的にも比較的争いの無い宗教であり、素晴らしいことだと思っている。いつまでも人々の心の支えとなる場であって欲しい。心理カウンセラーも思い悩むことがある。是非そうしたときの受け皿になって欲しいものだ。