戦争の本質は冒頭15分でGasp

HappyWinkingLaughブログのカテゴリに「映画」を登場させました。映画館にもほとんど行かず、DVDをレンタルするでもなく、もっぱら衛星放送の映画専門チャンネルを見るだけなので、無類の映画好きというほどではありませんが、それなりの愛好家であることは間違いありません。勝手気ままにピックアップした映画を紹介して行きたいと考えています。
*写真について:写真を掲載している個人サイトを多く見かけますし、映画の宣伝に寄与するのですから本当は私も載せたいところですが、著作権が何やら複雑に入り組んでいるのが映画らしく、上手い解決策を見つけるまでは映画サイトのリンクでやっていこうと思います(^^).。


記念すべき初登場は何故か戦争映画2本。ともに第二次世界大戦を描いた作品。
「スターリングラード」(監督:ジャン=ジャック・アノー)。戦争の舞台はソ連。

「プライベート・ライアン」(監督:スティーブン・スピルバーグ)。戦争の舞台はフランス。

戦争映画の銃撃シーンや爆撃シーンは当然のお約束。でも死にゆく兵士たちの「死に方(殺され方)」のパターンは様々。どのパターンを描くかによって、戦争の見せ方が違ってくる。制作側の意図によってそれは異なる。

戦争ものといっても映画である以上は娯楽。特にJournalistic な意見を述べるつもりもないけれど、戦争は悪であると考える一人としては、その悪の本質や実態が巧く表現されているかどうかが、戦争映画の善し悪しを計る目安になると考えている。

「悲惨な無駄死に」。これが私の計り方の一つ。両映画は共に、それを冒頭の15分程度で表していた。戦争は所詮国と国の争い。トップが命令し、下々の国民から死にゆく。国という怪物に翻弄される庶民、これが戦争の本質ではないのだろうか。

スターリングラード:劣勢が続く戦地に膨大な兵力を注ぎ込む。軍の司令部から見れば、兵士は家畜同然。それを象徴するかのように彼らは貨車に詰め込まれて到着。主人公ヴァシリ(ジュード・ロウ)が学のない羊飼いという設定もそれを印象づける。貨車が開いて外に放り出された途端、いきなり空からドイツ軍機の掃射を浴びる。打たれ倒れてバタバタと死にゆく兵士たち。残った兵士が渡船で戦地に向かう途中も空からの掃射。またバタバタと。兵力を失いつつ戦地に到着するが、まったなしで敵地に走らされる。銃は2人に1人だけ。1人が殺されたら銃を持って走る。逃げ戻ろうとすれば今度は、「Coward! (臆病者)」と罵られ味方に撃たれる。

この映画のもう一つの見所は、ヴァシリ(ジュード・ロウ)とターニャ(レイチェル・ワイズ)のラブシーン。長引く戦況の中、疲れ果てた兵士たちがイモのように並んで雑魚寝する所。仮眠を取るヴァシリの横にターニャが身を潜り込ませる。人間一人分幅でのメイクラブ。周囲を気にしつつのラブシーン。ターニャの大きな目、声を立てそうになるターニャの口を手で塞ぎながらのラブメイキング。「あれ、あり得ない」「でもどうやって?」「ちゃんと、ホントに、できてる?」などなど、友達の間では可能不可能をも含めた意見・異論が飛び交いました(笑)。百聞は一見に如かず。見ていない方は、是非ご覧下さい。

プライベート・ライアン:ドーバー海峡を渡り、オマハビーチ上陸をはかるアメリカ軍の兵士たち。上陸の途端、ドイツ軍の凄まじいまでの銃撃を浴びる。バッタバッタと倒れゆく兵士たち。傷を負った兵士を助けようと腕を掴むが、爆撃で下半身がない。叫びながら千切れた腕を探す兵士もいる。ビーチはどこまでも血の海。見事なまでに広がる赤い海が、夥しい死者数を感じさせる。近くで炸裂した爆音により耳を一時的にやられ、こもった音の中でうつろな表情をした主人公ミラー大尉(トム・ハンクス)がアップになるシーンもリアリティがあった。

この映画のラストシーンは、何度見ても違和感を感じる。戦地で救い出された「ライアン」が年老いた現在。救ってくれたミラー大尉の墓前に、妻、子供や孫?など大勢で向かう。墓に向かって歩くシーンに時間を割きすぎているように感じる。そして、墓前での涙、妻に語りかけるウェットな口調は何かわざとらしさ、取って付けたような感を拭えない。確かに「ライアン」の今はミラー大尉らの犠牲の上に成立している。毎年、隔年、3年ごと?、墓参りの頻度はわからないが、あれから50年以上の年月が流れている。「涙」を使った演出よりも、重々しさがありながらもさらっと手短に墓前のシーンを描いた方が、却ってミラー大尉に対する「ライアン」の感謝の気持ち、墓前に向かってミラーと語らうことが常となっている「ライアン」、を表現できたのではないか。観客を「上手く、長く」涙に誘うやり方はハリウッドの王道?