フクシマ、悪は「政治」か「国民性」か


11年06月11日:土 :"なんだかんだ":日本のゆくえ
福島県を超え、日本という国を超え、もはや世界的に重要な意味を持つことになった複合的名詞「フクシマ」。このフクシマをめぐり、世界では脱原発論議が交わされている。2022年までに原発全廃を決めたドイツ。1990年代に既に脱原発を実行に移しているスウェーデン。風力発電を重視するデンマークは、2050年までに化石燃料から脱却し自然エネルギーへ切り替える方針を打ち出した。
まだ原発事故が起きていない国々が脱原発なり自然エネルギー切り替えという英断を行う。一方、原発事故が起きた当事国の日本はいまだにグレーゾーン。原発廃止にしていく方針かどうかを取材した際、原発立地の都道府県首長の中で「廃止」を明言した者はいない。しばらくは原発に頼ったとしても未来的には「廃止が望ましい」と唱えた者もいない。菅首相の一声で停止となった浜岡原発だが、地元の人のインタビューを見ると、首相の停止命令を英断と捉えている様子はあまりない。諸外国と日本におけるこの危機意識に疑問を感じるのは私だけだろうか。
誰もが言う、「経済が低迷するのは困る」とか、「電気が供給されないと困る」という判で押したような意見。確かに皆困ることだ。だが、絶対に返ってくるであろう当然の回答のためにいちいち取材する必要があるのだろうか。必要なのはその上で何を選択するかである。でないと、未来への方向が定まらない。
原発全廃決定のドイツ。中道右派のメルケル政権は元々原発維持側だった。だが、フクシマの後、世論が一気に脱原発に傾いた。脱原発を推進する緑の党が躍進。政権を奪われまいとするメルケル氏が緑の党を封じ込めるためにとった戦略である。つまり、100歩譲るなら、政治の道具(票集め)となる原発という点ではドイツも日本も同じだと言えるかもしれない。
そうなると違うのは世論なのか。経済低迷はノー、電気供給無しはノー、計画停電もノー、という街頭の声、企業の声。こうした声が中心になってしまうと、次のような大衆心理が産まれる。『原発はイヤだけど、福島原発事故のようなことはもうさすがに起きないのでは。今回の事故を機に電力会社も安全対策に最善を尽くすだろうし。今、一気に全部の原発を止めるほどのことはないと思う』。
こうした人々は、かつて無い犠牲を今も尚支払続けている事実をどう感じているのか。「フクシマ」が私たちに突きつける事実。それは、暮らしている地から引き離された人々。また今後何十年もその地に帰れないであろう人々。一次帰宅の際に目にしたのは、牛や馬、ペットの犬や猫がやせ細り、変わり果てた姿で餓死している場面。福島県民だけではない。野菜が売れない、魚が売れないと、風評被害に泣く福島以外の県民。また、日本への旅行者が減り、日本から去って行く外国の人々、また日本産の農作物が敬遠され、日本自体も世界的な風評被害に遭っている。でも、フクシマが起きる事はないと言うのだろうか。
日本にも脱原発を訴える声はあり、そうした報道も少なからずなされているはずだ。にもかかわらず、政治家のセンセイたちが脱原発に向かわないのは、日本の世論の動きが必ずしも脱原発ではないからなのか。日本人の国民性と言われる、「お茶濁し」的側面のためだろうか。事を荒立てずにうやむやにする気質が、原発事故ですらも「まぁまぁ、脱原発まで極論にしなくても」というような雰囲気を醸し出しているのだろうか。
或いは、マスコミ操作が巧いのか。年間2,000億円と言われる電力会社の広告宣伝費はオイシイ。だが、現状維持ばかり報道するのは見え見えだから、適度に原発反対の論客を登場させる。だが総括としては脱原発にならないように”調整”する。経済低迷や酷暑の夏の計画停電などネガティブ要素を臭わすことにより、人々の心に原発維持が浮上してくる。それが”調整”の効果。果たしてそうなのかどうか。マスコミの戦略を見透し、「おっとっと、それはくわなの焼き蛤ですゾ」と言える日本人はどのぐらいいるのだろう。
脱原発で経済低迷を余儀なくされるのはドイツも同じである。だが何故、世論の脱原発が勢いづくのだろう。政治、マスコミ、日本人の国民性、果たして何がニワトリで何がタマゴなのか。
だが、本当に”低迷”するのか。自然エネルギー政策の甲斐があってか、デンマークのエネルギー消費は80年代以来横ばいだった。一方の経済は着実に拡大した。スウェーデンに至っては、90年から17年間の温暖化ガス排出量は9%減り、逆に経済はこの期間で5割ほど拡大した。同期間の日本はというと、経済は3割弱の拡大、温暖化ガス排出量は9%も増えたという。
人がつくったものにもかかわらず、人が制御できないようなもの、そもそもそうしたものに頼って生きて行く必要があるのか。最も基本のところに立ち返って考えるべきだと痛感する。
まだ原発事故が起きていない国々が脱原発なり自然エネルギー切り替えという英断を行う。一方、原発事故が起きた当事国の日本はいまだにグレーゾーン。原発廃止にしていく方針かどうかを取材した際、原発立地の都道府県首長の中で「廃止」を明言した者はいない。しばらくは原発に頼ったとしても未来的には「廃止が望ましい」と唱えた者もいない。菅首相の一声で停止となった浜岡原発だが、地元の人のインタビューを見ると、首相の停止命令を英断と捉えている様子はあまりない。諸外国と日本におけるこの危機意識に疑問を感じるのは私だけだろうか。
誰もが言う、「経済が低迷するのは困る」とか、「電気が供給されないと困る」という判で押したような意見。確かに皆困ることだ。だが、絶対に返ってくるであろう当然の回答のためにいちいち取材する必要があるのだろうか。必要なのはその上で何を選択するかである。でないと、未来への方向が定まらない。
原発全廃決定のドイツ。中道右派のメルケル政権は元々原発維持側だった。だが、フクシマの後、世論が一気に脱原発に傾いた。脱原発を推進する緑の党が躍進。政権を奪われまいとするメルケル氏が緑の党を封じ込めるためにとった戦略である。つまり、100歩譲るなら、政治の道具(票集め)となる原発という点ではドイツも日本も同じだと言えるかもしれない。
そうなると違うのは世論なのか。経済低迷はノー、電気供給無しはノー、計画停電もノー、という街頭の声、企業の声。こうした声が中心になってしまうと、次のような大衆心理が産まれる。『原発はイヤだけど、福島原発事故のようなことはもうさすがに起きないのでは。今回の事故を機に電力会社も安全対策に最善を尽くすだろうし。今、一気に全部の原発を止めるほどのことはないと思う』。
こうした人々は、かつて無い犠牲を今も尚支払続けている事実をどう感じているのか。「フクシマ」が私たちに突きつける事実。それは、暮らしている地から引き離された人々。また今後何十年もその地に帰れないであろう人々。一次帰宅の際に目にしたのは、牛や馬、ペットの犬や猫がやせ細り、変わり果てた姿で餓死している場面。福島県民だけではない。野菜が売れない、魚が売れないと、風評被害に泣く福島以外の県民。また、日本への旅行者が減り、日本から去って行く外国の人々、また日本産の農作物が敬遠され、日本自体も世界的な風評被害に遭っている。でも、フクシマが起きる事はないと言うのだろうか。
日本にも脱原発を訴える声はあり、そうした報道も少なからずなされているはずだ。にもかかわらず、政治家のセンセイたちが脱原発に向かわないのは、日本の世論の動きが必ずしも脱原発ではないからなのか。日本人の国民性と言われる、「お茶濁し」的側面のためだろうか。事を荒立てずにうやむやにする気質が、原発事故ですらも「まぁまぁ、脱原発まで極論にしなくても」というような雰囲気を醸し出しているのだろうか。
或いは、マスコミ操作が巧いのか。年間2,000億円と言われる電力会社の広告宣伝費はオイシイ。だが、現状維持ばかり報道するのは見え見えだから、適度に原発反対の論客を登場させる。だが総括としては脱原発にならないように”調整”する。経済低迷や酷暑の夏の計画停電などネガティブ要素を臭わすことにより、人々の心に原発維持が浮上してくる。それが”調整”の効果。果たしてそうなのかどうか。マスコミの戦略を見透し、「おっとっと、それはくわなの焼き蛤ですゾ」と言える日本人はどのぐらいいるのだろう。
脱原発で経済低迷を余儀なくされるのはドイツも同じである。だが何故、世論の脱原発が勢いづくのだろう。政治、マスコミ、日本人の国民性、果たして何がニワトリで何がタマゴなのか。
だが、本当に”低迷”するのか。自然エネルギー政策の甲斐があってか、デンマークのエネルギー消費は80年代以来横ばいだった。一方の経済は着実に拡大した。スウェーデンに至っては、90年から17年間の温暖化ガス排出量は9%減り、逆に経済はこの期間で5割ほど拡大した。同期間の日本はというと、経済は3割弱の拡大、温暖化ガス排出量は9%も増えたという。
人がつくったものにもかかわらず、人が制御できないようなもの、そもそもそうしたものに頼って生きて行く必要があるのか。最も基本のところに立ち返って考えるべきだと痛感する。