違いとは


10年01月22日:金 :"なんだかんだ":日本のゆくえ
穢多非人。
日本ではこの言葉をどの程度の人が知り、どの程度の知識水準で知り、どの程度の理解をしているのだろうか。
「部落民」「被差別部落」「同和」など、いくつかの呼び方はあるが、これらはどれも明治政府の解放令後に”出没”してきた”政治・行政的”名称だと言え、それ以前は冒頭のような蔑称がまかり通っていた。
今や、露骨に差別をする人はいないと思う。だがそれは”彼ら”がどこにいるか知らないからであり、彼らはいちいち”名乗らない”から、差別以前の状況にあるとも言えないだろうか。
何年か前、「部落民差別はやめよう」という主旨のチラシを町役場で見かけたことがある。交通ルールを守ろう、などと同様の、よくある行政のお決まりチラシなのかもしれないが、配布されるということは、やはり”彼ら”はいるのだろう。
数日前から始まった朝日新聞夕刊の連載記事は、『差別を越えて』。被差別部落出身の人たちの人脈記を綴っている。
記事の初回は、1971年、赤い鳥が歌っていた『竹田の子守唄』。この元唄は、京都・大阪の被差別部落に伝わる民謡なのだそうだ。子守奉公に出る幼い少女たちが守り子の辛さを嘆きながらも自らを励ます労働歌だという。記事の写真には、元唄を歌う被差別部落出身の70代の女性たち。
もう40年も前の歌なのだから、と思っていると、2回目の記事で取り上げられた被差別部落出身者は若い人たちだ。27歳の女性と31歳の男性。大学時代、差別されるかもしれないという怖さで出自を明かすことはできず、だが反面、言えない辛さを理解して欲しいという思いも強くあり、その葛藤に悩まされていたという。
「差別」は大昔のことではないのである。新聞はこのように、今も残る悪しき事実を特集してくれるが、学校ではどのように教えているのだろうか。
こうした差別に関する日本の教育方法の特徴として、”当たり障りのない教育法”があるように思えてならない。あくまでも簡単な事実なり史実、そして最後に「差別はいけません」というようなやり方だ。私自身、被差別部落のことは学校で何かしら学んだような気がする。だが、あまりにもおぼろげな記憶しかないのは、私がちゃらんぽらんな生徒であったことを差し引いても、何かしらその教育法に起因するものを感じる。被差別部落をある程度きちんと知るきっかけとなったのは大人になってから。住井すゑの『橋のない川』、島崎藤村の『破戒』を読んでからだ。また、 人権問題を取り扱っているジャーナリスト仲間がおり、彼らの熱弁からの方がもっと多く、且つ、問題の本質を学べた気がする。
先の『竹田の子守唄』は、被差別部落である竹田地区にまつわる楽曲だということで、日本の放送局はどこも放送したがらず、それは1990年代まで続いたそうだ。憎むべき差別は行政のチラシや学校での学びで「お達し」として通知されているはずだから、それ以上の”面倒”はやめにしてほしい、というやり方とは言えないだろうか。確かに、差別の対象になっている事柄を取り上げることが差別の助長を招く結果となる場合もある。繊細な問題だからこそ、教科書行政もマスコミも二の足を踏んだのだろうし、声高に批難するつもりはない。だが、こうした風潮を続けていると、”いる”はずの”彼ら”の姿が見えてこないままになる。それに何よりも、被差別部落の人々と”一般の人々”との違いは何ら見いだせないのが事実だ。この明白なる事実があるにも関わらず何故か存在する差別。だからこそ、差別という非人間的な行為が何故生まれたのかをきちんと教えることが大切だと感じる。それにより、差別する側の愚かしさが見えてくるはずだ。
特集に登場している人たちは、今もその犠牲者である。今も尚潜伏している人々の罪、その罪の刃で傷ついた心が今も尚癒えない人々。21世紀だというのに、あまりにも時代錯誤な現実が横たわる。 懺悔というと大袈裟に過ぎるかもしれないが、 朝日新聞の特集は、当たり障りの”ある”やり方を用いて、この事実を風化させまいとしたのではないだろうか。
前出の70代の女性は、差別は昔と同じでまだ変わっていないと言う。27歳の女性の場合、大学時代に彼女にとって身近な部落に関する講義を受講したが、その際行われた受講生アンケート結果に愕然としたそうだ。なんと半数の受講生が「生まれてくる子が差別されるかもしれないから部落の人とは結婚しないという考え方に共感できる」という回答をした。彼女はそれがきっかけで部落出身ということを伏せるようになったという。31歳の男性は、大学時代に部落解放研究会に所属していたものの、”外”の世界ではそれを伏せていた。サーフィン仲間が偏見に満ちた部落差別の話をしても常に沈黙を守り続けた。
その31歳の男性が言ったもう一つの言葉が、先の私のもやもやを言い表してくれた。それは、今では露骨な差別は少なくなったが、部落出身者がそこに”いない”と思って差別を語る場合があるということだ。”一般の人々”は、ついつい、悪気はないままに、部落差別発言をしているのだ。差別を作った馬鹿げた”一般”の感覚、愚かしい差別の歴史、それらが心身に宿るような教育を受けていないから、見た目では判別できない彼らの面前で”悪気のない”差別発言をしてしまうのであろう。一方、堂々と出自を告白したい気持ちと知られる恐怖の狭間で思い悩む彼らは、愚かしい”一般の人々”の言葉を、苦々しいながらもぐっと堪えて飲み込むのである。
差別の問題は、お茶を濁したような教育方法では通らない。またテレビも、”避ける”だけでは何ら解決にはならない。
実はこの問題は、在日韓国朝鮮人の問題とも似ている。見た目ではわからない彼らも同様に、本名を伏せ、通称の日本名を名乗る。心が打ち解けてきたところでようやく告白する。”在日”であることに何ら問題はないのに、申し訳なさそうに話す彼ら。そんなふうにしてしまった、させているのは誰か。20年近く前、在日韓国人と交際していた友達がいた。結婚したいと考えていたが、親に反対されて断念したと聞いた。知人のアメリカ人男性はある女性と交際していた。結婚を申し込まれた彼女は泣きながら在日韓国人であることを告白し、だから結婚は諦めると再びすすり泣いた。彼には彼女が何故泣くのかがわからず、何故結婚を諦めるのかも理解できずにいた。彼女が”在日”の現状を語る。あまりにも馬鹿げた日本の状況に呆れ返りながらも、再度彼女に結婚を申し込んだ。
日本には他にも”民族差別”が存在したし、今も存在する。どれも本質は同じだと思う。アメリカやヨーロッパでも同様に人種差別や民族差別は存在する。だが、どちらがどれだけ”悪い”かの極悪犯探しをするつもりはないし、比較するつもりもない。ただ、日本にある現実を憂うのみである。
ただひとつ、救われた気持ちになったのは、若い2人が最後に締めくくった言葉だ。「部落出身を明かす事は一種の賭けではある。でもエイッと踏み出さないと部落の事をわかってもらえない」「講演に歩くのも、部落出身を見える存在にしたいから」。一歩踏み出す事で見えてくる世界や景色が違ってくる。若い人たちに期待したいと心から思った。
日本ではこの言葉をどの程度の人が知り、どの程度の知識水準で知り、どの程度の理解をしているのだろうか。
「部落民」「被差別部落」「同和」など、いくつかの呼び方はあるが、これらはどれも明治政府の解放令後に”出没”してきた”政治・行政的”名称だと言え、それ以前は冒頭のような蔑称がまかり通っていた。
今や、露骨に差別をする人はいないと思う。だがそれは”彼ら”がどこにいるか知らないからであり、彼らはいちいち”名乗らない”から、差別以前の状況にあるとも言えないだろうか。
何年か前、「部落民差別はやめよう」という主旨のチラシを町役場で見かけたことがある。交通ルールを守ろう、などと同様の、よくある行政のお決まりチラシなのかもしれないが、配布されるということは、やはり”彼ら”はいるのだろう。
数日前から始まった朝日新聞夕刊の連載記事は、『差別を越えて』。被差別部落出身の人たちの人脈記を綴っている。
記事の初回は、1971年、赤い鳥が歌っていた『竹田の子守唄』。この元唄は、京都・大阪の被差別部落に伝わる民謡なのだそうだ。子守奉公に出る幼い少女たちが守り子の辛さを嘆きながらも自らを励ます労働歌だという。記事の写真には、元唄を歌う被差別部落出身の70代の女性たち。
もう40年も前の歌なのだから、と思っていると、2回目の記事で取り上げられた被差別部落出身者は若い人たちだ。27歳の女性と31歳の男性。大学時代、差別されるかもしれないという怖さで出自を明かすことはできず、だが反面、言えない辛さを理解して欲しいという思いも強くあり、その葛藤に悩まされていたという。
「差別」は大昔のことではないのである。新聞はこのように、今も残る悪しき事実を特集してくれるが、学校ではどのように教えているのだろうか。
こうした差別に関する日本の教育方法の特徴として、”当たり障りのない教育法”があるように思えてならない。あくまでも簡単な事実なり史実、そして最後に「差別はいけません」というようなやり方だ。私自身、被差別部落のことは学校で何かしら学んだような気がする。だが、あまりにもおぼろげな記憶しかないのは、私がちゃらんぽらんな生徒であったことを差し引いても、何かしらその教育法に起因するものを感じる。被差別部落をある程度きちんと知るきっかけとなったのは大人になってから。住井すゑの『橋のない川』、島崎藤村の『破戒』を読んでからだ。また、 人権問題を取り扱っているジャーナリスト仲間がおり、彼らの熱弁からの方がもっと多く、且つ、問題の本質を学べた気がする。
先の『竹田の子守唄』は、被差別部落である竹田地区にまつわる楽曲だということで、日本の放送局はどこも放送したがらず、それは1990年代まで続いたそうだ。憎むべき差別は行政のチラシや学校での学びで「お達し」として通知されているはずだから、それ以上の”面倒”はやめにしてほしい、というやり方とは言えないだろうか。確かに、差別の対象になっている事柄を取り上げることが差別の助長を招く結果となる場合もある。繊細な問題だからこそ、教科書行政もマスコミも二の足を踏んだのだろうし、声高に批難するつもりはない。だが、こうした風潮を続けていると、”いる”はずの”彼ら”の姿が見えてこないままになる。それに何よりも、被差別部落の人々と”一般の人々”との違いは何ら見いだせないのが事実だ。この明白なる事実があるにも関わらず何故か存在する差別。だからこそ、差別という非人間的な行為が何故生まれたのかをきちんと教えることが大切だと感じる。それにより、差別する側の愚かしさが見えてくるはずだ。
特集に登場している人たちは、今もその犠牲者である。今も尚潜伏している人々の罪、その罪の刃で傷ついた心が今も尚癒えない人々。21世紀だというのに、あまりにも時代錯誤な現実が横たわる。 懺悔というと大袈裟に過ぎるかもしれないが、 朝日新聞の特集は、当たり障りの”ある”やり方を用いて、この事実を風化させまいとしたのではないだろうか。
前出の70代の女性は、差別は昔と同じでまだ変わっていないと言う。27歳の女性の場合、大学時代に彼女にとって身近な部落に関する講義を受講したが、その際行われた受講生アンケート結果に愕然としたそうだ。なんと半数の受講生が「生まれてくる子が差別されるかもしれないから部落の人とは結婚しないという考え方に共感できる」という回答をした。彼女はそれがきっかけで部落出身ということを伏せるようになったという。31歳の男性は、大学時代に部落解放研究会に所属していたものの、”外”の世界ではそれを伏せていた。サーフィン仲間が偏見に満ちた部落差別の話をしても常に沈黙を守り続けた。
その31歳の男性が言ったもう一つの言葉が、先の私のもやもやを言い表してくれた。それは、今では露骨な差別は少なくなったが、部落出身者がそこに”いない”と思って差別を語る場合があるということだ。”一般の人々”は、ついつい、悪気はないままに、部落差別発言をしているのだ。差別を作った馬鹿げた”一般”の感覚、愚かしい差別の歴史、それらが心身に宿るような教育を受けていないから、見た目では判別できない彼らの面前で”悪気のない”差別発言をしてしまうのであろう。一方、堂々と出自を告白したい気持ちと知られる恐怖の狭間で思い悩む彼らは、愚かしい”一般の人々”の言葉を、苦々しいながらもぐっと堪えて飲み込むのである。
差別の問題は、お茶を濁したような教育方法では通らない。またテレビも、”避ける”だけでは何ら解決にはならない。
実はこの問題は、在日韓国朝鮮人の問題とも似ている。見た目ではわからない彼らも同様に、本名を伏せ、通称の日本名を名乗る。心が打ち解けてきたところでようやく告白する。”在日”であることに何ら問題はないのに、申し訳なさそうに話す彼ら。そんなふうにしてしまった、させているのは誰か。20年近く前、在日韓国人と交際していた友達がいた。結婚したいと考えていたが、親に反対されて断念したと聞いた。知人のアメリカ人男性はある女性と交際していた。結婚を申し込まれた彼女は泣きながら在日韓国人であることを告白し、だから結婚は諦めると再びすすり泣いた。彼には彼女が何故泣くのかがわからず、何故結婚を諦めるのかも理解できずにいた。彼女が”在日”の現状を語る。あまりにも馬鹿げた日本の状況に呆れ返りながらも、再度彼女に結婚を申し込んだ。
日本には他にも”民族差別”が存在したし、今も存在する。どれも本質は同じだと思う。アメリカやヨーロッパでも同様に人種差別や民族差別は存在する。だが、どちらがどれだけ”悪い”かの極悪犯探しをするつもりはないし、比較するつもりもない。ただ、日本にある現実を憂うのみである。
ただひとつ、救われた気持ちになったのは、若い2人が最後に締めくくった言葉だ。「部落出身を明かす事は一種の賭けではある。でもエイッと踏み出さないと部落の事をわかってもらえない」「講演に歩くのも、部落出身を見える存在にしたいから」。一歩踏み出す事で見えてくる世界や景色が違ってくる。若い人たちに期待したいと心から思った。